本文へ移動
8.日蓮主義研究『化城の昭和史』上・前半
      田中智學先生
 田中智學先生率いる国柱会は、日本に大きな影響を与えたようです。田中智學先生の教えは『日蓮主義』とか『日蓮イズム』とか呼ばれております。『日蓮主義』とは、単なる宗教としての『日蓮宗』から一歩踏み出して、日常生活から政治・経済までも『日蓮宗』の考えを実践しようとするものであります」。
 よく似たものに、『イスラム教』と『イスラム原理主義』があります。宗教の枠を超えた『イスラム原理主義』という言葉には、なんとなく不気味なものを感じます。さらに『イスラム原理主義過激派』というとテロリズムが結びついてしまいます。
 この『日蓮主義』は、戦前の日本において多大の影響があったようです。昭和の歴史は、『国家主義』や『日蓮主義』、軍部などが複雑に入り組んで形成されたのです。
 さて、『日蓮主義』を研究した『化城の昭和史』という珍しい小説があります。この『化城の昭和史』は、寺内大吉が書きました。寺内大吉は、作家、スポーツライター、浄土宗の僧侶として知られております。私は、キックボクシングの沢村忠の全盛時(少し古い?)にTVでベレー帽を被って解説をしていたのを記憶してます。
 
 寺内大吉は、競輪の解説者で生臭坊主のイメージが強かったのですが、増上寺第87代法主となったり小説でも宗教関連のものを書いております。
---尾崎秀実---
 この『化城の昭和史』は、満州事変あるいは五・一五事件や二・二六事件から始まる昭和初期以降の軍部独裁やそれに関連した様々な事象に対して、石原莞爾や北一輝らの日蓮主義者がどのように関知したかを中心に、ゾルゲ事件で刑死することとなる尾崎秀実に扮した主人公の視点から描いた、宗教関連小説の代表作といわれております。 
『化 城 の 昭 和 史』 上
 
日蓮思想の視座から初めて見えてくる!
昭和史前期の真相!
 
二・二六事件への道と日蓮主義者
 
海の上に城現はる
一城つづ現れては消える
後 虹現は
----------------------------------------北 一輝
 
1.字幕は証言する
  暗黒の昭和史は、昭和6年(1931)9月18日深夜満州事変の発端となる柳条湖鉄道爆破事件により幕が開けられた。
 事件の立案者は石原莞爾(かんじ)、実行者は板垣征四郎であった。関東軍は南満州鉄道を直接攻撃された場合にしか中央の指示なしで軍事行動を起こすことができなかった。このため、鉄道爆破をでっちあげ軍を動かしたのである。さらに、清朝の廃帝溥儀(ふぎ)をかつぎ出し、新国家満州国を建国しようとしたのである。
中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖
関東軍作戦主任参謀・石原莞爾
関東軍高級参謀・板垣征四郎
愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)
 昭和7年2月16日大和(ヤマト)ホテルにおいて張景惠・臧式毅・煕洽・馬占山の四巨頭会談が開かれた。その後、四巨頭は関東軍司令部を表敬訪問し、石原莞爾らと記念撮影をした。この時、『南無妙法蓮華経』の七文字が写されていた。2月16日は日蓮上人の誕生日であり、このお題目は日蓮宗の信者である石原莞爾が持ち込んだものであった。
 四巨頭会議の後の3月1日、四巨頭により『満州国建国宣言』が行われた。
 ところで、関東軍は12,000人、張学良軍は200,000人。兵力で大差があったのに関東軍が満州を制圧できたのは、蒋介石から『不抵抗主義』を命じられていたからであった。蒋介石は、共産軍だけでなく汪兆銘軍とも戦っており不法な日本軍の侵略に抵抗できなかったのである。
満州馬賊・張作霖の長男・張学良:後に西安事件を起こし国共合作を進めた
中華民国総統・蒋介石
若き日の毛沢東
汪兆銘:後に、日本の傀儡政権・南京国民政府を樹立
 張学良の『不抵抗主義』に乗って、昭和7年(1932)1月28日、(第一次)上海事変が突発する。この事件、団扇太鼓(うちわたいこ)を打ち鳴らす日蓮教徒が反日感情の強いタオル工場で中国市民に袋叩きにされたことが発端であった。この事件、戦後になって、上海公使館附陸軍武官補田中隆吉 が事件を起こすよう仕組んだものだったことが判明した。
 
 さて、日本では昭和7年(1932年)2月9日、選挙への応援演説に向かう途中の道で井上準之助大蔵大臣が暗殺。3月5日には、三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺された。この2つの事件、当初はなんの関係もないと思われたが、暗殺者が両名とも数珠を隠し持っており、狂信的な日蓮教徒の集団・井上日召率いる血盟団の仕業と判明した。
拡大する上海事変
井上準之助
三井財閥の総帥・團 琢磨(だん たくま)
血盟団・井上日召
2.霊感夢告
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)
 
 1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死した。
 1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した。
 北は、「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 北一輝は、佐渡の生まれである。そこは、日蓮が流刑された聖地である。北は、幼少期より法華経をそらんじていた。北一輝は妻スズと供に法華経を読誦し、この時の霊感・霊告を綴ったのが『神仏言集』である。
 昭和6年9月18日の霊告は「海の上に城現はる、一城づつ現れては消える 後 虹現はる」であった。この霊告こそ、王道楽土の新しい天地”満州国”そのものであった。

 それにしても日露戦争の終結以後、日本民族の満州の地へ向けた怨念執着は異常とも言える。父祖が流した血を、何としてでもあがなわずにはおれなかったのであろう。当時の日本人が、大連、旅順から奉天へ至る満鉄路線の、どの一駅を耳にしても血が騒いだというのは誇張ではあるまい。故郷の地名以上の愛着をおぼえたようである。十五年戦争侵略の根底に、日本人のこの異常な‘満州執着’の感情も見落としてはならない。

 北一輝に影響を受け、その宣伝者となったのが西田税(みつぎ)であった。

西田税( にしだ-みつぎ)

 
1901-1937 昭和時代前期の国家主義者。

 明治34年10月3日生まれ。大川周明の行地社にはいったが,大川と対立して北一輝(いっき)の門下となり,国家改造運動に参加。昭和2年士林荘を設立して天剣党規約などを配布。五・一五事件で血盟団員に狙撃され負傷。11年二・二六事件に連座,12年8月19日処刑された。37歳。鳥取県出身。陸軍士官学校卒。 
 西田税は、発禁となった北一輝の『改造法案』をガリ版で刷って青年将校に配布し、『霊感夢告』も愛読者に伝えられたのである。
 昭和10年8月12日、北一輝の影響を受けた相沢三郎中佐が、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される永田鉄山軍務局長が、刺殺される事件が起こった。いわゆる相沢事件である。
     永田鉄山

 永田鉄山は、あまりにも優秀で、かつ人望もあったため、お決まりの陸軍の内部闘争の旗頭にされてしまいます。
 当時の陸軍は、天皇親政を強化し武力による国民の支配も辞さない「皇道派」と、軍内の規律統制を重視する「統制派」に分かれて勢力争いをしていました。 どちらかというと「皇道派」は現場のたたき上げの軍人が多く、「統制派」は永田などのエリート軍人が多かったようです。
 ところが19357月に「皇道派」の重鎮・真崎甚三郎教育総監が更迭されると、永田は翌8月に、「皇道派」の相沢三郎中佐に日本刀で斬殺されてしまいます。真崎更迭を裏で画策したのが「統制派」の中心の永田だと思われたようです。
 死亡時の役職は陸軍軍務局長で陸軍中将でした。陸軍の方針決定の中心人物だったことは間違いありません。
 その後、「皇道派」の暴走は続き、翌1936年に二・二六事件が起こります。
 永田亡きあとの「統制派」は東条英機が引き継ぎ、戦争にまっしぐらとなっていくのです。永田と東条の違いは、一にも二にも能力と人望の差でした。
東条一人に戦争開始の責任があったと言うつもりは全くないのですが、陸軍大臣として、また後の首相としての世界情勢を読む能力、日本をまとめ上げる能力は永田と雲泥の差であったと言わざるを得ません。少なくとも永田が生きていたら、もう少し戦争のやり方が変わっていたのではないかと思われます。

闇株新聞より

3.兵法とは妙法なり
 陸軍大学で講義した石原莞爾は、しばしば黒板に『兵法とは妙法なり』と大書きした。この妙法の意味であるが、『世界が法華経(妙法)に帰した時、理想の仏教国が完成する』という意味であり、石原莞爾の兵法は『最終世界戦争に備えるため、東洋は日蓮主義で統一すべき』とういうものであった。
 この石原莞爾の思想の根源こそが、国柱会を率いる田中智學の思想であった。では、田中智學の思想とは何か?それは一言でいうと『祖師日蓮の意思を尊重せよ』であった。
 ところで、日蓮の思想暦は三期に分けることができる。
第一期は、『立正安国論』の時期であり、仏法を政策として重視すべきとの思想を持つ国家権力主義者の時期である。
第二期は、佐渡に流罪になり、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』の時期であり、法華経行者としての内面追及の宗教的思想家の時期である。
第三期は、身延山隠棲(いんせい)の時期であり、『撰時抄(せんじしょう)』などの仏教予言書を記載した神秘的予言者の時期である。
 田中智學が『日蓮主義』から『国体論』をねりあげ、『立正安国会』を『国柱会』と改めたのは大正3年(1914)であった。
 日蓮を、法華経の経句中の架空人物、上行菩薩の生まれ替りと信じる国柱会理念は、主催田中智學をその上行菩薩の再来と信じこみ、石原莞爾もまた、一点の疑念も抱こうとしなかった。
 
 
左から上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩
宮沢賢治
高山樗牛
里見岸雄
 ここで、3人の人物が登場する。宮沢賢治、高山樗牛、里見岸雄である。いずれも国柱会にとっては重要人物ではあるが、話の本筋には関係ないので簡単に説明する。
 宮沢賢治は、国柱会が主唱する国粋ファシズムにはなじまなかった。
 高山樗牛は、田中智學を激賞したため、国柱会の有力な後援者として扱われた。
 里見岸雄は、田中智學の息子であり、卒論が絶賛。国体論者となる。
本 門 戒 壇
 本門とは、《法華経》を解釈するにあたり,前半の14品(14章の意味)を迹門(しやくもん)とよび,後半の14品を本門とし,両門の関係が論じられた。日蓮は《法華経》をもって末代(末法)への教主釈尊の救いとし,天台宗が伝統的に迹門本門を一体とする解釈を批判して,本門によってこそ《法華経》の救いが保証されるとした。-----よくわからない人は、本門とは『ほんまもん』と解釈して下さい。
 
 日蓮が入寂したあと、門弟たちを混乱させたのが、本門本尊・本門戒壇・本門題目の『三大秘法抄』であります。この『三大秘法抄』については、日蓮教徒の中でもいまだに議論があるそうです。内容については、門外漢の私にはよく分からないのですが、国柱会と日蓮主義を知るためには『本門戒壇』について少し知る必要があります。
 戒壇とは、戒律を身につける修行道場で、鑑真(がんじん)和尚が最初に東大寺につくました。但し、この戒壇は小乗仏教の壇上で大乗仏教の戒壇は大同元年(806)に、比叡山山頂に伝教大師(最澄)が設けました。ところが、日蓮宗は他の宗教と違って排他性が強く、伝教大師の天台宗を誹謗したので独自の戒壇を考えねばならなかったのです。
 国柱会の日蓮主義は、国立の戒壇を作るべきと考えたのです。国柱会の日蓮主義は国家の完全なる宗教化を考えていたのです。なお、国立戒壇の考えは創価学会にもありますが、戒壇を建立する主体はあくまで日蓮門下であって国ではないことを明言しております。
東大寺戒壇院
唐招提寺 戒壇
福岡の観世音寺戒壇院
比叡山 戒壇院
  昭和13年、第一近衛内閣の内閣改造で、石原莞爾とともに満州事変を起こした板垣征四郎が陸軍大臣に就任した。次官には、東条英機が就任した。いわゆる満州グループが陸軍省を独占したかたちとなった。
 この時、石原莞爾の側近で浅原健三なる人物がいた。元無産党の代議士で『アカ』と疑われ、治安維持法で逮捕された。しかし、浅原を起訴することは石原を疑うことになり、石原を疑うことは当時陸軍大臣であった板垣征四郎の顔に泥を塗る行為でもあった。そこで、浅原は上海追放となり、石原の逮捕は不問に付された。この事件の背後には東条英機がいたと言われている。
 浅原健三は、その後(昭和19年)、東條英機暗殺未遂事件への関与が疑われ、憲兵隊に逮捕されるが、またも釈放され、今度は那須の山奥で蟄居させられる。戦後は、政財界の陰の実力者と噂された。
 
 ところで、国柱会の日蓮主義とは、天皇信仰と仏教教義とを強力に接着できる不思議な教義であります。
3
9
9
0
0
8
税理士法人いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 磯部和明
公認会計士・税理士
代表 森田行泰
税理士
1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
TOPへ戻る