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9.日蓮主義研究『化城の昭和史』上・後半
『化 城 の 昭 和 史』 上
 
日蓮思想の視座から初めて見えてくる!
昭和史前期の真相!
 
二・二六事件への道と日蓮主義者
 
海の上に城現はる
一城つづ現れては消える
後 虹現は
----------------------------------------北 一輝
 
4.糸つむぐ人
 話を血盟団事件にさかのぼらせる。血盟団事件により、井上準之助、段琢磨が暗殺された。逮捕された男は、裁判で田中智學の日蓮主義『王仏冥合(おうぶつみょうごう)』を宣伝しまくったのである。
 ところで、血盟団首魁(しゅかい)井上日召は逮捕される時、「国士として遇する」という説得により自首したのである。この「国士として遇する」という言葉が、その後のテロリズムを助長したことは言うまでもない。
王仏冥合(おうぶつみょうごう)
 国柱会の日蓮主義を知るためには、この王仏冥合(おうぶつみょうごう)という言葉は重要です。国語辞典を引くと、「王仏冥合とは、法華経の本門の教えが国家・社会の指導原理となることによって、この世に寂光浄土(仏の悟りである真理そのものが具現している世界)が実現するという日蓮の教え」となっております。
 王とは国王の政治のことであり、仏とは仏法のことです。冥合とは知らず知らずに一つになることです。したがって、政治と仏教の一体化を意味しております。まさに、『政教分離(政治と宗教の分離)』とは真逆の考えなのであります。
 新聞記者の改作は、西田税と会っていた。西田税は北一輝の発行処分となった『日本改造法案』をガリ版で刷って青年将校に配布した人物である。『改造法案』の内容は、天皇親政、華族制度の廃止、普通選挙の徹底、国民の自由、私有財産を300万円を限度として否定、などの民主独裁国家の樹立である。独裁とは天皇親政であり、国柱会の日蓮主義と相通ずるものがある。本来、民主と独裁とは両立しないが、天皇親政による民主国家というと矛盾がないような気がするから不思議である。
 西田税は改作に、坂本竜馬が書いた??ともされる『英将秘訣』を読ませた。内容は、「暗殺の勧め」「天皇道具論」などの殺人讃美の内容であった。
 西田税は天皇陛下の弟の秩父宮殿下と幼年学校時代からの同期であり、殿下を折伏(しゃくふく)したと語った。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)
 
1902年(明治35年)6月25日 - 1953年昭和28年)1月4日
大正天皇貞明皇后の第二皇子。昭和天皇の弟宮。
 
 明治42年学習院初等科入学、学習院中等科二年ののち、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校に入学。大正9年、陸軍士官学校に入学した。同期には服部卓四郎、西田税などがいる。
 昭和6年頃、秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 北一輝と親しかった者の中に、大川周明がいる。大川周明は北一輝の『改造法案』にほれ込んでいたが、金銭問題のトラブルで北一輝とは袂を分かった。

 大川周明は『金策のできない人間は、国事を論ずる資格がない』という明治から今日にいたるまでのごく当たり前の政治家と同じ政治信条であった。

 

 大川周明だけでなく、北一輝も脅しやタカリで稼いでいたが、西田税は終生純朴な青年将校であった。

  東京裁判で東条英機の頭をたたく大川周明

大川 周明(おおかわ しゅうめい)

明治19年(1886) -昭和32年(1957)

 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。

 なお、東京裁判において民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたことでも知られる。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。

 ところで、井上日召と西田税は反りが合わなかったようである。井上日召の次の暗殺計画には西田税も入っていたようである。次の515事件では、西田税も襲われることになるのであった。

 『日本改造法案』を書いた北一輝は、国柱会の日蓮主義者ではなかった。北一輝は、日蓮と同様に同じ法華経を信じる者であり、日蓮とは同格の友であり、同格の予言者との意識が強かったようである。

5.問答無用

昭和7年(1932)5月15日 五一五事件発生

 この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志である。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第二弾として決行された。古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

 首相官邸では、内閣総理大臣犬養毅が殺害された。この時のやり取り『話せばわかる』と『問答無用』はデモクラシーとファシズムの精神を象徴するものとして、はやり言葉にもなった。 

 平成7年の515事件。発生当座の世論はかなりきびしかった。検察官は、主犯格には死刑、共犯には無期を求刑した。しかし、世論は逆転し減刑嘆願の署名は69万以上に達した。
 この背景には、①リットン調査団の調査報告、②国際連盟の脱退、共産党活動の活発化などの内外の環境変化がある。

 外には外国からの脅威、内では赤化汚染の危機―日本人は軍部ファッショの愛国心と武力とに頼らないではおれなくなった。515事件のテロリストたちこそは、その尖兵ではないか。

 こうした世論に支持されて死刑は15年に、無期は10年へと大幅に減刑された。陸軍士官候補生の被告も8年の求刑が4年に減じた。「被告らは警視庁前で決戦して討死を覚悟していたもので、愛国の至誠にもとづく、1点の私心もない」と検察官の言葉もがらり一変していた。

リットン調査団
国際連盟脱退
我が代表、堂々と退場
コミンテルン
5・15事件法廷
摂受(しょうじゅ)と折伏(しゃくぶく)
 
 大乗仏教には、人を導いて仏教に帰依させるのに、摂受と折伏があります。国語辞典を調べますと,「いつくしみの心に基づいて人を受入れることを摂受といい,逆に,人をいったん議論などによって破り,自己の誤りを悟らせることを折伏という。」と書いてあります。
 ところが、日蓮宗、特に富士の日蓮正宗は『摂受』を認めず『折伏』中心であります。この『折伏』にも2つあるそうです。1つ目は、僧の姿(本体)の折伏であります。2つ目は武装した化儀の折伏であります。
 井上日召の『一人一殺』はまさしく『化儀の折伏』なのであります。
 犬養毅が銃弾を浴びていたころ、西田税もかっての書生・川崎長光に5発もの銃弾を浴び『順天堂医院』に運び込まれていた。そこで問題になっていたのが、手術代金の支払いであった。師匠の北一輝も手もと不如意で金策の自信がなかった。金は辻嘉六と言う人物が支払ったのである。支払った理由は未だ不明である。
 なお、順天堂医院は陸軍憲兵隊が占拠し、警察は取り調べが出来ない状況であった。

辻嘉六 (つじ-かろく)

 
1877-1948 大正-昭和時代の実業家
 明治10年3月生まれ。日本化学産業代表取締役などのかたわら,原敬(たかし)らとむすび,立憲政友会の黒幕的な存在として活躍。また亡命中の孫文(そん-ぶん)らを援助,戦後は日本自由党の創立にもかかわった。

隠退蔵物資事件(いんたいぞうぶっしじけん)

 旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなった。その後、この資金が辻嘉六などを通じて政界に流れていることが分かり、その調査のため衆議院に「不当財産取引調査特別委員会」が置かれた。

-謎のM資金-

 この事件は、現在に至るまで様々な噂が続いている。俗に言う「M資金」である。当時のGHQ経済科学局は日銀の地下金庫を捜索しダイヤモンドや貴金属類を押収している。これらの押収した物資の全体像は今でも謎になっている。

 昭和8年(1933)7月11日、神兵隊事件という血盟団の弁護士・天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件が発覚した。
 計画では、100機近い飛行機から官邸と警視庁に爆弾を投下し、これを合図に地上部隊は官邸・私邸、政友会・民政党・社会大衆党の各本部などを襲撃し、警視庁・日本勧業銀行などを占拠してこれを本部とし、政府転覆を目的として暴動を起こす予定であった。
 逮捕から6年以上経過した後判決が下りたが、主犯共犯共に軽い罪となった。いまだ謎の多い事件であった。
6.仏陀を背おって

 日蓮主義は右ばかりに流行したわけではなかった。左にも共鳴者をふやした。

  その一人に妹尾義郎がいる。妹尾義朗は広島で「桃太郎」などの銘酒をつくる酒屋の子に生まれた。そうとうに学業に秀でていたようだ。ただ体が悪く、学問の道をすべて断念している。

  かくて一転、仏教者として生きようと決意して千カ寺の廻国修行に旅立った。途中、出会ったのが岡山賀陽町の日蓮宗妙本寺の釈日研の孤児院である。後継者になる予定だったが、母危篤のため帰郷。帰郷中、田中智学の「国柱新聞」の話題が入って、にわかに国柱会への熱を募らせていく。ついにじっとしていられず、田中智學を訪れるのだが、あしらわれる。宮沢賢治もその一人、妹尾義郎もその一人である。

やむなく妹尾は統一閣の本多日生のもとを訪れ、ここで日蓮主義青年団をおこして、機関紙「若人」を編集しはじめた。大正8年のことである。

本多 日生(ほんだ にっしょう)
1867年(慶応3年)3月13日 - 1931年(昭和6年)3月16日
 
 日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。
 
写真は、(右から)本多日生、田中智学、清水梁山(日蓮宗)
 妹尾義郎は昭和2年に岡山で立正革新党を旗揚げをする。妹尾の左傾化はこのあたりから顕著なものとなっていった。当然、日蓮主義青年団内部からは批判の声が湧出した。
 左傾化した妹尾義郎は、恩師・本多日生と対立、決別することになった。
 昭和6年(1931)妹尾義郎は、『新興仏教青年同盟』いわゆる「新興仏青」をおこした。
新興仏教青年同盟
 
 既成仏教宗団の革新と資本主義社会の変革を目ざして結成され,戦時下に反ファッショ運動を行った仏教徒団体。1919年,大日本日蓮主義青年団を結成して人道主義的社会運動をおこした妹尾義郎(せのおぎろう)は,31年4月同志とともに青年団のなかから新興仏教青年同盟(仏青)を組織した。仏青は恐慌下の大衆の窮乏化,侵略戦争開始による社会不安増大のなかで既成宗団の腐敗を批判し,宗派を超えて仏教者に新鮮な影響をあたえた。

 妹尾義郎のスローガンは「仏陀を背おいて街頭へ」であった。仏陀が街頭へ進出するからには、塵埃から身を守る着衣を必要とする。その着衣は、社会科学理論でなければならない、と妹尾は主唱した。その仏陀主義を前面に押し出し、各宗各派の教義主張を捨てて大同団結、純正な共同社会の建設こそが仏教人に与えられた唯一つの社会的実践だ、とも妹尾は説いた。

 

 この『新興仏青』であるが、昭和12年から治安維持法により妹尾義郎も含め、次々に検挙された。逮捕された妹尾義郎は、『転向』を誓い喀血したこともあって昭和17年に仮出所した。

 『転向』とは、天皇制の容認である。否定すれば『革命家』、容認すれば『転向者』となる。

 妹尾義郎 (せのお-ぎろう)
 
1889-1961 

 1918年本多日生が主宰する法華団体統一団に参加する。翌1919年には統一団の青年信者を中心に、大日本日蓮主義青年団を組織し、機関誌の発行や各地への講演などを精力的に行っている。青年団活動の中で、やがて小作争議や労働争議などにかかわるようになり、社会変革の必要性を説くようになる。

 1931年日蓮主義青年団は、妹尾の主導の元、超宗派の新興仏教青年同盟に発展解消。4月5日に開かれた結成大会で、妹尾は初代委員長に選出される。新興仏青はその綱領に「釈迦の鑚仰と仏国土建設」「既成宗団の排撃」「資本主義経済組織の革正と当来社会の実現」などをかかげ、労働運動、消費組合運動、反戦反ファッショなどの活動にかかわっていった。しかし戦時色の強まった1936年2月に特高警察に妹尾は検挙される。1か月後に釈放されるも、同年12月には再度検挙され、治安維持法違反で実刑判決を受け、1940年12月に入獄した。

 戦後は、仏教社会同盟委員長、平和推進国民会議議長、日中友好協会東京都連会長などをつとめた。1959年には日本共産党に入党したが、1961年8月に長野県の自宅で没した。

 『新興仏青』の妹尾義郎が嫌いな人物がいた。『日蓮会』を名乗る江川忠治である。日蓮上人の直参を自認する江川忠治は、江川桜堂という法名を持っていた。
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