本文へ移動
 1.老舗旅館として知られていた『水口屋』を訪ねて
 今回は、清水の興津にある『水口屋』の訪問であります。実は、私は35~36年前にこの『水口屋』を訪れたことがあります。この頃、私は清水銀行の会計監査の補助をしておりまして、清水銀行の興津支店にお邪魔いたしました。この時、わざわざ『水口屋』に予約して頂きまして、お昼ごはんを食べに行ったのです。
 こちらが、恐縮してしまう程の丁寧な対応を受け、館内を案内して頂きました。天皇陛下の泊まった部屋や檜のお風呂などを見学させて頂きました。
 お昼は、『天ぷら定食』を注文しました。もちろん、『天ぷら定食』という下品な名前ではなかったのですが・・・・。
 驚いたことに、ごはんのお替りのために食事の間ずっと女中さんが私の隣で正座をしているのです。このような待遇に慣れていない私はすごく緊張して食事をした記憶があります。
 食事が終わって、『お勘定をお願いします。』と言うと、先方が『エ~』と困った様子で『後日、郵送させて頂きます。』とおっしゃたのであります。
 私は、この老舗旅館で始めから最後まで緊張していたような気がいたします。
 
 後日、銀行を通じて請求書が来ました。金額を見てびっくりしました。すごく安かったのです。残念ながら金額までは覚えておりませんが、「あの食事で、この金額」と思ったことは今でも忘れられません。
 
 私の生涯で、この老舗旅館でお昼の定食を食べたことが、忘れられない記憶となっております。
(清水歴史探訪より)
 清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
 
 毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
 
 興津の市街地、旧国道一号線沿いに、立派な松がのぞくお屋敷があります。かつては、興津を代表する老舗旅館として知られ、現在はフェルケール博物館の別館となっている『水口屋(みなぐちや)』です。
 ここでガイドを務める、望月裕見子さんを訪ねました。
 「ここは約400年ほど続いた老舗旅館でして、初代ご当主の望月という者が山梨・甲斐の出身でございます。
 この身延街道を下りてきまして、武田信玄の家臣でもありました。この興津の浜でとれたお塩とか塩漬けにしたお魚をこの身延街道を通しまして甲斐の国に送る仕事もしておりましたので、武士であってまた、商人でもあったのです。それで財を成したとみえまして、この地に立派なお屋敷を建てることができました。
 それが立派だったことから、江戸時代に入りますと、脇本陣を務めるようになりました。また明治・大正・昭和の40年ぐらいまでは、かなり海水浴のお客様でこの水口屋は繁盛しておりました。
国道1号バイパス開通前の薩埵峠と東海道線、富士山 (山田写真館提供)
清見潟から興津の町並みを望む
清見潟海水浴 戦後
 しかし、昭和40年代、高度成長期に入りまして、車が普及いたしますと、渋滞緩和ということで海を埋め立てて静清バイパスを通してしまいました。その結果、ここの興津の町はただの通過点となってしまい、さらに、景観も変わってしまいました。
 
 35~36年前に、『水口屋さんは静清バイパスに反対しなかったですか?』と尋ねたところ、『(当家の御主人は)お上のすることには一切反対なさるような人ではありません。』と返答されたと記憶しております。
 
 この水口屋も昭和60年の1月31日まで営業しておりましたけど、もう閉めざるを得なくなりまして、閉館という形になってしまいました。
 最後のご当主、水口屋の20代目のご当主(4代目望月半十郎)が鈴与さんの方に譲渡しました。
 現在では、鈴与さんの管理のもと、フェルケールの別館、『水口屋ギャラリー』として貴重な資料を展示して、皆様に無料で観覧していただいております。」
「脇本陣だったということは、この興津の宿場の中でも大きなお宅だったんですね。」
 「そうですね。この興津の町は、手塚本陣・市川本陣と、本陣が2つありました。その内、主に手塚本陣のお手伝いをいたしておりました。手塚本陣に泊まり切れなくなりました下級武士なんかはこちらのほうにお泊りいただいていたという、そういう風に伺っております。
 
 市川本陣の跡は、『水口屋』の東方向に歩いてすぐそばの街道沿いに『興津宿東本陣址』として石碑が立っております。そして、手塚本陣の跡は、 『水口屋』の西方向に歩いてすぐそばの街道沿いに『興津宿西本陣址』として石碑が立っております。
 
4
7
4
0
9
7
税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
TOPへ戻る