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 5.天皇家と水口屋
(清水歴史探訪より)
 水口屋を訪れたのは政治家や、文人墨客(ぶんじんぼっかく)だけではありません。
 「豪華なお膳と食器があるんですが、これは何でしょうか。」
 「これは大正天皇、まだ10歳ぐらいのときですね。明宮(はるのみや)皇太子殿下といわれた時代に、この興津の町に海水浴の御静養に来られたときに使われていた食器ですね。
 お泊りは清見寺(せいけんじ)で、お寺の方にお泊りでした。食事は、精進料理を食べていたんですけど、なかなかお口に合わなかったようで、水口屋の方にお食事のご所望が回ってきました。
 水口屋では、この漆塗り、金箔のお膳に載せまして、三度三度清見寺のほうにお届けになってそうです。このお膳と食器が、そのまま残っております。さらに、もう一客、清見寺さんの方にも残っていると聞いております。宝物殿のほうにあるそうなんです。」
 
 「さあ、そして、こちらのほうにもいろいろと細かい小さい食器類、土瓶ですとかいろいろありますが、こちらは何でしょう。」
 「水口屋は有栖川家ともご縁がありまして、有栖川家の最後の妃殿下の慰子(やすこ)妃殿下という方もこちらの方でご静養されておりました。こちらはご自分が使われる専用の食器を宮内庁を通しまして水口屋に預けていたのです。
 
有栖川宮妃慰子殿下:最後の加賀藩主前田慶寧の四女
 慰子(やすこ)妃殿下は、大正3年~10年まで、毎年3~4月、寒い東京からこちら暖かい興津のほうに1ヶ月間ほど御静養に来られました。その時には専用の料理人1名、また女官さん3名を連れまして、ご静養されていたそうであります。
 慰子(やすこ)妃殿下は、こちらの方に来られるときはもうかなりお年を召しておりました。晩年だったことから、お膳なんかもすごくちっちゃなお膳でございます。また、珍しいことに、こちらはお弁当箱でございます。こんなちっちゃなお弁当なんかも使われておりました。
 ところで、大正12年に慰子(やすこ)妃の薨去(こうきょ)を持って有栖川宮家は断絶してしまいます。水口屋は慰子(やすこ)妃殿下の専用の食器を、宮内庁を通しましてお返しすると言ったんですけど、返すあてがなくなってしまいました。その結果、これらの妃殿下の専用の食器は、宮内庁のほうから下賜(かし)されまして残っております。貴重な器でございます。
 
 有栖川宮熾仁(たるひと)親王とトンヤレ節
 有栖川宮といえば、トンヤレ節(トコトトンヤレ節)であります。トンヤレ節は、『宮さん 宮さん』で始まる日本最初の軍歌であり、鳥羽伏見から戊辰戦争までを歌っております。この軍歌の目的は、「錦の御旗の説明をして薩長が朝廷の軍であることを示して明治の新しい世の到来を京から江戸までの間に伝えること」であります。宮さんとは薩長、特に長州と縁深い有栖川宮熾仁親王の事であります。
 
宮さん宮さん お馬の前に/ひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの/錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ
 
一天万乗の帝王に/ 手向かいする奴を/トコトンヤレトンヤレナ
ねらい外さず/どんどん撃ち出す薩長土/トコトンヤレトンヤレナ
 「さあ、そして展示室の真ん中のところに、また別のケースがあります。こちらの食器はこれは何なんでしょうか。」
 「こちらは昭和32年、静岡国体が開かれたときに、この水口屋が昭和天皇皇后両陛下のお宿と決まりまして、2泊3日されております。そのときのためだけに焼かれた器でございます。宮内庁から淡い色で無地、というご指定がございまして、こちらのほうを使われたのでございます。」
 「大正天皇のあの食器と比べますと、非常に質素ですね。」
 「そうですね。ただ、この黄色は、何か高貴な方が使う色だそうです。」
 「この色は、やはり陛下でなければ使えなかった色ということなんですね。」
 「はい、そのように伺っておりますね。ここ、お宿と決まりましては、1ヶ月前から、すべてのお客様をキャンセルいたしまして、このための準備に費やしたそうでございます。ふすま・畳・寝具、すべて新しくいたしまして、ご準備にあたったと聞いています。」
 「一大イベントになりましたね。」
 「そうですね。まだ戦後12年しか経っていない時に、興津の町をあげて、本当に大イベントだったみたいですね。」
 「写真がありますが。」
 「天皇皇后両陛下がお泊りになりました御幸(みゆき)の間ですね。なので、昭和32年のころですね。」
 「外に松があって、かなりきれいなお庭になっていたようですね。」
 「そうですね。水口屋の特徴としましては、お庭を囲むように、はなれのように客室があったことが特徴的でして、この天皇陛下がお泊りになりました御幸の間は、一番いい、真ん中、お庭の真ん中にあったお部屋でして、駿河湾を一望できるところにあったお部屋ですね。
 
 天皇陛下が、水口屋に来た時の様子を、『Japanese Inn』には詳細に記載されております。少し、引用してみます。
両陛下水口屋入り
 群衆は身を乗り出して街路を見渡し、ざわめき声が次第に大きなり、旗が一斉に動き出した。2台のオートバイに乗った警官が辛うじて倒れない程度の速さで走って来た。
 続いて大型のメルセデス・ベンツ車が来た。流行など無視した皇室の自動車である。四角な黒塗りの屋根は、後に従った流線型のセダン車よりも30cmは高い。その溜塗の車は大きな箱型であり、菊の御紋が金色に輝いている。
 お車がゆっくり走ってきて水口屋の門前で止まると、従者がドアを開けた。慈母を思わせる女性とグレーの服を着た小柄な男性が降り立った。
 望月が最敬礼すると、町の指導者たちも最敬礼した。天皇は答礼された。一同は元の姿勢に戻ったが、興津の町の指導者たちは新しい時代の要請に合わせた身のこなしがまだ板につかず、一瞬まごついた。それからぎこちないが、誠意のこもった万歳を唱えると、群衆は頭上で陛下がそれにお答えになってグレーの中折れ帽子を振っておられるのを見た。同じくぎこちないが、誠意のこもった仕草と拝察された。
滞在中の両陛下
 2日後両陛下が出発なさるまで、宿屋の家族も従業員もお部屋へは伺わなかった。両陛下は御習慣上、皇居から来たお付きの人々だけに御用を仰せ付けられたからである。食事はドアまで伊佐子と二人の年上の女中が運んだ。保健当局の指図に従って皿は白布で覆い、それを運ぶ女性は外科医のするマスクをした。
 伊佐子はご到着とほとんど同時にお茶と茶菓を運んだ。茶菓は陛下に差し上げた地方名物の最初の品であった。
 望月はいった。
 「菓子は東京の有名な店に注文すれば簡単でしたろうが、陛下はいつもこのような菓子を召し上がっておられるでしょうから、何か変った品を差し上げたいと思いました。最初の日には宮様饅頭という小型の饅頭を差し上げました。今から50年ほど昔、ある宮様が清見寺に泊まられた折に差し上げたので、その名が起ったのです。宮様はお気に召しました。幸いにも陛下もお気に召したようです」
 町に夕闇がたれこめると、どの店先の日の丸の提灯にも灯がともされた。見渡す限り、川辺から、水口屋の護衛付きの門前から、清見寺の曲り角の辺まで街道には一面に敬愛をこめた慶祝の灯がつづいたのであった。
 
 午後6時30分マスクを付けた一行が最初の御夕食を曙の間に運んだ。両陛下はお二人だけで食事を召され、それを賞美された。350年前の家康と同様に特に興津鯛の浜焼を好まれた。
 御夕食後、町では浜辺で花火が打ち上げられ、沖の舟から仕掛け花火が上げられた。折悪しく天皇は暫くお部屋を留守にされたので、ご覧にならなかったが、皇后はご覧になって喜ばれた。
 両陛下は早くお休みになり、6時に起きなさったが、宿屋の従業員はそれよりもずっと早くから働いていた。たとえば新聞の問題があった。東京と静岡の日刊紙は全部、水口屋に特別早く配達されたが、保健当局はあくまで警戒して陛下にお届けする前に蒸気又は消毒剤で滅菌するように命じた。どの方法によってもその結果は新聞がふやけるので、のして乾し、再び読めるようにするために数名の女中がクリーニング場のありったけのアイロンを使った。
両陛下のお立ち
 翌朝、宿屋の全員が玄関に整列した。陛下がお出ましになり、お言葉を賜った。皇后と共に厄介になった、これも皆の御苦労のお陰であると謝意を表された。お婆さんはうれし涙に暮れた。
 両陛下はリムージンにお乗りになって出発された。再び興津の住民の大半が街道に集まった。2日前のように歓呼してその朝も両陛下をお見送りしたが、今度は散って行かなかった。ほんの少数の者が店番や家事のために帰っただけで大多数は水口屋の門を潜った。
 何百人もの人が玄関を通り抜け、赤い絨毯を横切り、椅子と靴脱ぎの脇を通り、磨いた廊下から陛下のお部屋まで続いた。お休みになられたベッドや使われた湯船やお部屋を見物した。
 部屋の名は変更された。曙の間が御幸の間となった。新しい部屋の名は伝説めいた水口屋の歴史にさらに一つの章を書き加えた。
 
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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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社員 磯部和明
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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