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 7.解説・JAPANESE INN(水口屋)その1
 
 400年の歴史を持つ『水口屋』ですが、『水口屋』を世界的に有名にしたのは、スタットラーの『Japanese Inn』であります。幸いにも、英語版と日本語版が手に入りました。
 両方を見比べながら、解説にチャレンジしたいと思います。
水口屋の紋
 
CHAPTER ONE
In which the inn is introduced
第1章 宿への道
さつた峠の頂上で、旅人は富士山や駿河湾を眺めて一服した。(広重筆)
 スタットラーは、ひたすら『水口屋』に向っております。スタットラーにとって『水口屋』は古いしきたりと礼儀正しいもっとも日本的な場所なのです。さらに、この宿は日本の歴史に深く関与しているのです。
 さて、由比をでて興津までの間にさった峠があります。昔は、この峠を通らないと興津に行けなかったのです。さった峠からは富士山と駿河湾が美しく見えます。日本で最も美しい眺めがみられるのです。
 さらに、有名な伝説の舞台である三保半島が見えます。三保の松原の美しさに惹かれた天女が空から舞い降りて来て水を浴びた。その時に羽衣を松の枝にかけ、漁師に盗られてしまいます。天女は舞を舞って羽衣を返してもらうという伝説であります。
 さった峠には旅人の守護神・さった地蔵が祀られております。
川を渡る旅人。おえらがたはかごで、一般の人は人足の肩に乗って(広重)
 スタットラーは興津川の川原にかかった橋にさしかかりました。江戸時代の東海道の川には、橋のある川とない川があります。橋のない川で有名な大井川は船も使わず、歩いて渡るだけに制限されていました。興津川にも昔は橋はありませんでした。
 興津川の橋を渡ると、古い古い町があります。この古い町のはずれに、名刹・清見寺があります。『水口屋』では番頭のヨシと主人の伊佐子が出迎えてくれました。
 
 『Japanese Inn』の挿絵は、白黒なのでカラーの浮世絵に変更しました。
武田信玄の紋
1569-1582                            
CHAPTER TWO
In which the inn is founded
第2章 宿のはじまり(初代・二代目)
武田信玄(筆者不承)
 永禄12年(1569)の冬、豪族たちが興津で覇権を争っていた。山国の豪族は武田信玄であり、彼は禅に入り僧名つけた強者である。彼は、部下に酒を飲ませ『暑い酒を飲んでも寒いのだから敵はもっと寒い。』と言って敵を襲い、多量の武器や糧秣を奪った。
 しかし、春になると兵糧は底をついてしまったので、本国に兵を引き上げました。
 夏になって信玄は再び押し寄せ、駿河の国を制圧した。ようやく、海に接することができた信玄は、久能寺を平野に移し、久能山に久能城を築城した。そして、海岸沿いに砦を築き、塩や魚を集めた。
 興津にも小さな砦を築き、『望月』という家来を責任者にした。
 初代の水口屋の当主である。
塩をつくる人々(広重筆・部分)
 間もなく望月は信玄の許しを得て家族を呼び寄せた。望月の妻と息子が駿河にやってきて、砦に住むことになった。息子は、すぐに新しい環境に慣れた。
 漁師は、日向で網を繕いながら昔話を話し、女たちは塩をつくった。天秤棒に下げた桶に海水をくみ、砂の上に撒いて蒸発させ、さらに海水を注いで濃い塩水をつくるのである。濃い塩水を大きな鉄窯で煮詰め塩をつくるのである。
 少年の父、望月は塩とか塩漬けの魚を山国に送るのである。
 少年は、新しくできた友達と歩き回り、故郷の山々を忘れてしまったようである。
 父は、少年に乗馬と剣術を教え、武士としての教育を怠らなかった。
    書の師匠(耳鳥斎筆)
 興津の望月家は平和であったが、武田勢にはそうではなかった。
武田信玄は興津の戦いの2年後、包囲した城の上に現れたに心を奪われいる間に、狙撃兵に頭を打たれてしまったのである。
 
挿絵は、ふえの師匠ではなく、ふでの師匠である。これは、スタットラーのユーモア?
 
 息子は、勇敢というより向こう見ずで、同盟国と仲違いしてしまった。戦況は日々不利になり、ついに興津も戦いに巻き込まれそうになった。しかし、多勢に無勢のため降伏したのである。
東海道の旅人(広重・部分)
 降伏した相手は、徳川家康である。家康は、清見寺と望月の館を焼くように命じた。住職の願いにより清見寺の本堂と、偶然にも家康が幼少の時に学んだ小さな部屋が焼け残った。
 2~3週間後、武田の最後の当主、武田勝頼は自決した。駿河は、家康の手に握られ、望月は武士としての地位を失った。地位と権力の二つとも失ったが、望月は興津に残ることにした。
 近所の人々が、砦の跡に家を建てるのを手伝った。召使いたちも、これまで通り望月家に仕えると言った。
 望月の新しい家は大きく、堂々としていたため、身分ある旅人は宿を求めてた。最初に宿を乞うた人が誰かわからぬが、その人は水口屋の最初のお客である。
豊臣秀吉の紋
1582-1605           
CHAPTER THREE
In which a reluctant Mochizuki  is pushed deeper
into innkeeping                                                     
第3章 不承不承の宿経営
織田信長(筆者不承)
 望月は武士であり、宿の主人になる気はなかった。当時は武士が商人になり下がることは、屈辱であった。しかし、身分の高い人が来た時には最上の部屋を明け渡した。
 この当時、織田信長が天下統一の目前であったが、部下の一人に殺されるとういう事件が起きた。だが、2週間も経たない内に秀吉が反乱軍を鎮圧し、信長の同盟者・家康と信長の家来・秀吉が残った。両者は戦ったがどちらも決定的な勝利を治めなかった。そこで、両者は同盟を結ぶことになった。
 この当時、家康は駿河に居を移したため、街道は賑わい、望月の息子は新しいざわめきに気がついた。
 秀吉は、北条征伐を決意し、家康に先陣を要請した。
豊臣秀吉(筆者不承)
 東海道は戦闘準備のため整備された。清見寺の再建の急速に進められた。秀吉は、前線の司令部ができるまでこの寺に住むことになっていた。
 望月は秀吉の到着を待った。秀吉は旅ややつれしているだろうと語り会っていたが、多くの部下を連れて誇らしげに馬に乗ってきた。興津の住民は圧倒され、道端にひざまずいて出迎えた。
 家に帰った望月は、この派手な有り様を報告しようと思ったが、家にはこれほどまでにない客が押しかけていたのだった。
 秀吉の元には、いち早く家康が拝謁(はいえつ)に来た。家康との会合とは別に、今日まで伝わっている会合がある。利休との会合である。秀吉は純金を好む人間であるが、一方ではこの質素な茶人を求めていた。
 ところが、秀吉との会合に利休は遅れてきたのである。
清見寺の鐘楼堂(平塚運一作)
 利休は秀吉との会合に『なぜ、遅れてきたのか?』の返答に『お茶を点てていました。』と回答した。秀吉は激怒して利休の大切にしていた茶杓(ちゃしゃく)を真っ二つにしてしまった。この茶杓は細い竹の柄に金をあてがい修復されて、今でも清見寺に伝わっている。利休が泣いたので『涙』という名前である。
 清見寺の鐘の音は有名である。秀吉は家来を鼓舞するために、この鐘を供出するようにと書状を書いた。この書状は今も保存されている。鐘は丸太に乗せて海岸まで運ばれた。
 秀吉は前戦基地の完成の報とともに、15万の兵で敵の小田原城を包囲した。
  網を持つ漁夫(九蘭筆)
 秀吉が発っても興津の交通量は減らなかった。宿を乞われることは、あいかわらず多かった。海辺では興津の漁師たちと噂話をした。漁師たちはその日の獲物を秀吉軍に運ばれていた。
 夏の終わり、北条の城が落ちた。この勝利は、興津の人々には領主の交代を意味した。家康は江戸に新しい城を築いた。駿河は秀吉軍の領将たちに分割された。
 秀吉は京都に戻る途中、再び清見寺に立ち寄り、寺の印象を語り、それは巻物となった。清見寺の鐘は返されたが、僧が自ら運び鐘楼におさめられた。
 秀吉はその後朝鮮に出兵したが戦いに勝利することができないまま病の床に就き死亡した。その後、家康は関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍の地位に就いた。家康のいる江戸は事実上の首都となった。
 東海道の宿場で馬と担ぎ手の交替および役人の点検(広重筆)
 大名たちは江戸に屋敷を構え、自分たちの領土と江戸の両方で生活するようになった。多くの大名が東海道を大名行列した。東海道は以前よりもにぎやかなものになった。
 慶長6年(1601)、幕府は東海道の江戸~京都間に53の宿場を開くように命じた。宿場には宿屋、めし屋が集まってきた。興津は江戸から数えて17番目の宿となった。
 家康は古くからの日本の習慣にしたがって隠居することになった。家康はお気に入りの駿府に引っ越してきたのである。
 家康が駿府に引っ越してきてから望月の家は旅人でひどく混雑するようになってきた。望月は引き延ばしてきた家督相続と自分自身の隠居を引き延ばすことができないと感じた。ただし、望月の息子は商人の考え方で自分は武士の心が捨てられず溝があった。
 
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税理士法人いそべ会計
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代表 磯部和明
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