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 9.解説・JAPANESE INN(水口屋)その3
 
芭蕉の落款
 
The 1960s                    
CHAPTER SEVEN
Which explores the pleasures offered by a Tokaido
post town, and some of the troubles and compen-
sations which come the way of an innkeeper         
                 
第7章 宿場の苦と楽(6代目)
   按摩(ぶんぽう筆)
 東海道53次の宿場には、ほとんど遊女がいた。いくら禁止しても効き目がないので、各旅館に2人まで飯盛り女という名前の遊女を置いてもよいことになった。違反した場合には、罰金を取られるが大した金額ではなかった。
 水口屋は脇本陣であるので、一般客を奪い合う競争をする必要がなく遊女は置かなかった。しかし、客が病気になって困ったことがあった。薩摩藩の武士が病気となった時には、薬だけでなく鍼灸・加持祈祷まで行ったが病死してしまった。病人よりもうれしくなかったのは公家である。彼らは金払いが悪く金銭欲しさにわざと事件を起こしたりした。
花魁(おいらん:ミンワ筆)
公家と従者
 街道沿いの役人にとって将軍家の御用品の通過ほど神経をつかうものはなかった。特に御用茶は特別だった。どんな有名な大名も道を譲り、旅人は土下座した。
 しかし、元禄7年(1694)に事件が起きた。御用茶掛かりの3人の内、多羅尾(たらお)という顔が皮膚病により醜い男が同僚から嘲笑され、その同僚を斬ってしまったのである。
 この結果、多羅尾は近くの日蓮宗の耀海寺(ようかいじ)で切腹しするのだが、その際『追善のため祠を建ててくれれば、お参りに来る人々の病気を治して進ぜる。』と言った。祠が建てられ、巡礼が来るようになった。
 東海道の旅籠屋。客は一日に旅を終えて風呂に入ったり、按摩を取ったりしてゆっくりしている。(広重筆)
 東海道の旅籠屋。部屋に寝転がっている男に膳が運ばれる。一方で男がフロから上がってくる。田舎芸者は夕化粧の真っ最中。(広重筆)
 6代目望月半蔵が自慢しいお客の一人が芭蕉である。芭蕉は興津に来た時、清見寺に泊まったが、水口屋で句会を開くことができた。素人俳人・半蔵が有頂天になったのは言うまでもない。
 芭蕉は東海道については、月並みすぎて趣味に合わなかったのかほとんどなにも書き残していない。しかし、興津に泊まった思い出として、芭蕉の句が街道脇に碑が建てられた。
 ところが、句碑が建てられると不況になり、この俳句の責任となった。海に投げ込むところを、清見寺の住職が寺の境内に移させ、文字を彫った面を下にして池の橋にした。
 
にしひがし/あわれさ同じ/秋の風
 
 芭蕉の句は今なお、清見寺の池の水に映っている。
 池大雅の筆になる丸一の看板
 
the 1690s                 
CHAPTER EIGHT
Which investigates the medicine shops of Seikenji,
and their special attractions                                    
第8章 清見寺前の膏薬店
 膏薬(興津の膏薬ではありません)の効能
 この章では、表の話と裏の話が記載されております。裏の話は18歳未満の方には読んで頂きたくないので、18歳未満の方はこの章を飛ばして読んでください。
 興津で有名なのは、表は清見寺の万能膏であります。50軒の店が清見寺の門前に並び、膏薬を製造販売しておりました。有名なのは、「膏薬の元祖」と称した『丸一』と「膏薬の本店」と称した『藤の丸』であります。両店は清見寺の両端のあったそうです。
 これに対して、裏で有名なのは稚児遊びであります。東海道の宿ではほとんど飯盛り女を置いておりましたが、稚児まで置いた宿が興津なのであります。
 オランダ人医師・ケンプエルの報告には、
「店といわんよりはむしろ露店ともいうべきものありしことなり。各店先に十歳ないし十二歳の少年一人、二人、あるいは三人屯(たむろ)せり。身綺麗になし、顔に紅、白粉の類をば塗り、女人のごとく品を作る。性下劣、無慈悲なる主に囲われ、裕福なる旅人の淫楽の用に供せられる。日本人この悪習に染むること深し。」とあります。
 スタットラーによると、その当時日本では男色は当たり前だったそうです。
 僧侶は女色を禁じられており、武士は戦陣で小姓が修道(同性愛)の対象となりました。1716年頃に書かれた『葉隠』には、武士道における男色の心得が説かれ、武士における衆道は命がけのものが最高のこととされておりました。
 膏薬が重かったので、角平はその大包みを肩に担いでいかねばならなかった。(耳鳥斎筆)
洒落本に載った清見寺の稚児(膏薬売り)
 清見寺の稚児は、当時の大衆文学「洒落本」にも取り上げられました。「公家の釜国と従者の角平は、陰間好みで有名である。清見寺に着いた時の彼らの喜びは想像に余る。一軒一軒、各店の商品を味見したため、町を出る時には膏薬の荷が重く、角平は大きな包みを肩に担いで歩かねばならなくなった。」という話です。
西鶴の「清見寺の仇討ち」
 次に、西鶴も清見寺を舞台に仇討ちの物語を書いております。「遊郭で侍が喧嘩して殺害。殺された妻子と弟が仇討ちの旅にでます。ところが、弟が妻と横恋慕の後、妻に殺され妻も自害。残された子供は清見寺の稚児として奉公。殺害した侍は自ら討たれるため稚児を探したが行き違い、興津で死亡し土葬。成人した稚児が亡骸に敵討ち。」という話です。西鶴の手によってどのような好色本になったかはご想像にお任せします。
 清見寺の美少年は、能「三井寺」にも登場します。このように、興津の稚児は全国的にも有名だったようです。
 ただ、このような女装した稚児の薬売りの時代は長く続かず、18世紀後半には膏薬だけの商いとなりました。さらに、鉄道開通とともに膏薬売りも街道の歴史から姿を消していったのです。
神社の鳥居
 
     The 1690s                          
CHAPTER NINE
Which concerns the light-hearted pilgrims of the
Tokaido                                                                  
第9章 東海道の陽気な巡礼(6代目、7代目)
 6代目・望月半蔵の息子望月半四郎は、伊勢参りに行く時期になっていた。この当時、一人前の男は伊勢参りに行くのが当然だった。伊勢参りに半四郎が行って帰ってきたら、半蔵は隠居するつもりだった。
 伊勢参りは陽気な巡礼で誰もが行きたがっていた。伊勢参りに行くために伊勢講に加わっていたが当たる確率は低かった。しかし、費用を自弁すれば一行に加わることができたのだった。
 この伊勢巡りには、半四郎の美人の嫁や半四郎と仲の良い水口屋の若い番頭も同行したがったが、半四郎の選んだ旅行相手は半四郎の友達二人だった。彼らは自費で講に当たった一行に加わり、伊勢巡礼に出発した。
 伊勢の巡礼は予想通り楽しかった。
 興津に凱旋帰国した半四郎を待っていたのは、妻と番頭の金銭持ち逃げと駆け落ちだった。駆け落ちした妻と番頭は静岡でつかまり、処刑場に引き立てられた。
 この事件があった1か月後、半蔵は卒中でで亡くなった。
 
伊勢音頭(広重筆)
 内宮への道には三味線をひいたり歌ったりするきれいな芸者が
並んでいた。(寒月筆)
 
 僧侶に付き添われた伊勢参りの群衆(広重筆・部分)
 伊勢参りの中には「抜け参り」といって、金も準備もろくにしないで勝手に巡礼に行くものもあった。ケチな金持ちの中には、見送りも土産もいらない「抜け参り」をするものもあった。
 もちろん、伊勢講を組織してしっかり準備して行くものもあった。彼らは水口屋の上得意でもあった。
 ところで、60年に一回ぐらい熱に浮かれたように、我も我もと参宮に抜け参りに行くことがあった。わずか50日間で300万人以上が伊勢に押しかけたという記録がある。しかし、この参宮熱は突然おさまったという。俗にいう「おかげ参り」である。
 私は、幕末に「ええじゃないか」騒動があったので、この「おかげ参り」の延長かと思ったのですが、別物との意見が主流のようです。
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税理士法人いそべ会計
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静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 磯部和明
公認会計士・税理士
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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