7.NHK人間講座『朝鮮通信使』の解説(下)
通信使がこの清見寺に泊ったのは慶長度、寛永元年度の二回だが、後年の通信使も往復の途次に登閣することを期待していた。
駿河湾を前にした風光の明媚さと共に歴代の寺僧との交流を楽しみとしていたのだろう。葛飾北斎の「東海道五十三次」のうち「由井」は通信使の一人が日本の役人や僧侶の前で墨痕鮮やかに「清見寺」としたためている絵柄である。
葛飾北斎の『由井』は、
『4.朝鮮通信使の歴史』に掲載しています。
これは想像図だが通信使と清見寺の深いかかわりが広く知られていたことの証拠である。
富士山もまた通信使に旅中の一大眺望としておおいに期待されていた。金仁謙(キム・インギョム)の『日東壮遊歌』は大きすぎた期待と実見してあらためて受けた感動を率直に告白している。
富士山もまた通信使に旅中の一大眺望としておおいに期待されていた。金仁謙(キム・インギョム)の『日東壮遊歌』は大きすぎた期待と実見してあらためて受けた感動を率直に告白している。
写真は、葛飾北斎の東海道五十三次の『原』
興津清見寺を出た一行は、吉原から三島をへて、箱根峠で富士山を見ながら芦ノ湖の水と箱根の緑を堪能した後小田原にも宿泊し、江戸に向ったのであります。
第8回 江戸聘礼(へいれい)と江戸の人びと
江戸時代も中期となると、京都・大坂の人口が30~40万人なのに対して江戸は100万近い人口に成長しておりました。通信使一行が受けた印象は強烈だったと思われます。
通信使一行の宿舎は、本誓寺、正徳寺から浅草の東本願寺に変遷しました。通信使の江戸滞在は12日間が最短で通例20~30日に及びました。江戸滞在期間中の最大の行事は、『国書伝令』であります。朝鮮国王の国書を、将軍家に渡す儀式なのですが、この儀式は朝鮮側からみると屈辱的なところがあったようであります。
公式行事とは別に、馬上才の上演がありました。馬上才は騎馬民族の後裔(異論あり)である朝鮮民族の騎馬の戦闘技術から発達したものであります。