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 3.三保の根岸飛行場の完成
(清水歴史探訪より)
 その頃、ちょうど三保に不時着場を作る計画があり、錦蔵達は三保に向います。ところが、中々飛行場設置の許可が下りません。
 「三保にね、不時着場を作りたい。大阪から東京の間になにかあっても、不時着できる所がなくてはいけないということでね、三保を候補地にしたんです。
 なにかあったら、海に落ちればいいからという意見もありましたが、それでは困ると思って三保の浜辺に不時着場を作りたいと、根岸錦蔵と雲井龍子は来たわけですよ。
 そして、県庁に行って『格納庫を造りたい。』と陳情したら、『それはだめだ。三保の景勝地にそんな恒久的な施設はだめだ。』と、だから県庁は許可をしてくれなかった。」
「今でいう自然公園法みたいな。なにか法律があって。勝手に変えてはいけないということなんでしょうか?」
「そうなんです。色んな規則があったのですね。
 そうしたら、たまたま顔見知りの新聞記者が『不時着場を作るということは珍しい。』と記事取りに来たのです。その根岸錦蔵と懇意にしていた新聞記者が、静岡電気鉄道の専務の熊沢一衛(くまざわかずえ)を紹介してくれたのです。
 熊澤一衛(くまざわ いちえ)
熊澤 一衛(くまざわ いちえ/かずえ)
1877年(明治10年)11月1日-1940年(昭和15年)2月14日
 熊澤一衛は、三重県四日市市出身の実業家であり、伊勢人である。歌人でもあるが、伊勢電鉄社長として有名である。
 熊澤一衛は、県立津中学に学んだが、胸を悪くして三年で中退したが、自然治癒したとみえて、日露戦争には一等看護長として出征している。
 日露戦争から帰った熊沢は、明治三十九年の九月に四日市製紙株式会社に入社した。特別の学歴もない上に遅いスタートであったが、のちに製紙王といわれたその四日市製紙の社長、大川平三郎にその才能を買われ、さらに、時の実力者であった伯爵田中光顕の知遇を得た。
 明治四十五年の一月には、四日市製紙の取締役になり四日市製紙と富士製紙の合併に尽力した。そして、四日市製紙の社長、大川平三郎のお蔭で、大正九年には静岡電力の専務となり、同十二年には静岡電鉄の専務をも兼務した。そして大正の末年に、熊沢は運命の四日市銀行、伊勢電鉄等の主宰者となる。
 昭和六年には、社長、取締役、監査役等を勤めている会社が全国に三十七社もあり、しかも有名な会社ばかりであり、『東海の飛将軍』と称された。
 ところが、昭和4年(1929)熊澤一衛は、関西本線の鉄橋の払い下げを政界に働きかけた汚職事件により、逮捕された。そして、四日市銀行は破綻してしまうのであった。
 その当時の静岡電気鉄道は、お茶を運ぶため、清水の港の方へ電車を走しらせていたのです。熊澤さんという人は、昔の狐ヶ崎の遊園地(後に狐ヶ崎ヤングランド、今ではスーパージャスコから清水イオン店)のコマーシャルソングとして、茶っきり節を作った。それから、草薙に野球場を作ったんだ(後の1939年に、静岡鉄道から静岡県に寄付)。
 
写真は、清水港での製茶の輸出荷役作業
静岡電気鉄道(静岡電鉄)と静岡鉄道(静鉄)について
①明治39年(1906)安西地区の製茶問屋から清水港へ茶を輸送する目的で(旧)静岡鉄道が設立されます。
②明治41年(1908)静岡鉄道をはじめとする8つの会社が合併され、大日本軌道が設立されます。
 
 
写真は、静岡~清水波止場間の旧静岡鉄道の軽便
③大正8年(1919)駿遠電気(鉄道)が設立され、大日本軌道から駿遠電気に、旧静岡鉄道の鉄道路線が譲渡されます。
④大正12年(1923)駿遠電気は、静岡電気鉄道に社名変更されます。
 
写真は駿遠電気鉄道時代の列車
 静岡電気鉄道時代の1923年から1930年に至るまでは相当な放漫経営であったようです。同社専務の熊沢一衛は四日市製紙・四日市銀行の専務を兼ねており手広く事業活動を行っていましたが、1932年に四日市銀行が破綻したため、同専務は所有する静岡電気鉄道の株式を売却します。売却先は、東京横浜電鉄(今の東急)であります。
⑤昭和16年(1941)に静岡電気鉄道は、東京横浜電鉄の傘下に入ることになります。
⑥昭和18年(1943)藤相鉄道・中遠鉄道・静岡乗合自動車・静岡交通自動車を統合して静岡鉄道となります。初代会長は五島慶太であります。
⑦昭和22年(1947)東急グループを離脱いたします。但し、現在も筆頭株主は東急であります。
 
写真は静岡鉄道の新清水行の電車
 ということで、静岡電気鉄道(静岡電鉄)静岡鉄道は別の会社と考える必要があります。
 田中光顕
 それから田中光顕(タナカコウケン)という方がいたんです。土佐勤王党の生き残りで、明治時代に宮内大臣をやった人です。田中光顕は、坂本龍馬とか中岡慎太郎と一緒に薩長同盟に動いた人間で、昭和まで生きていました。
 
田中光顕は、第26話旧五十嵐歯科医院を訪ねてに登場します。
 
 第26話では、田中光顕の自伝『維新風雲回顧録』の解説が記載されております。
 
 ところで、田中光顕は三保に格納庫が出来てから見に来てくれたばかりか、その後、根岸錦蔵に物心両面の支援を行い、飛行機まで寄付してくれたそうです。
 
昭和7年(1932)出版の三保半島の地図
 それから鈴与の六代目・鈴木與平(よへい)が、そういう人達が尽力してくれて、1年契約で格納庫(=飛行場)を作ることになったのです。もちろん、契約更新は毎年可能だったんですが。」
 いよいよ自分の飛行場を持って活動し始めた根岸錦蔵は、次々と新しい事業にチャレンジしていきます。
「最初、空の上からの魚群捜査。カツオとかマグロを探す仕事したんです。
 ところが、その当時の漁師達は、無線どころかコンパスも持っていなかったんです。昔の漁師は、竜爪山(文殊岳(1041m)と薬師岳(1051m)の二つの峰からなる清水の山です。)だとか三保の松原を見て、ただそれだけで操航していたんです。
 それで根岸錦蔵は県庁に『コンパスを買ってくれとか海図を買ってくれ』とか掛け合ったのです。
 根岸錦蔵は、そういった物を漁師に渡して、空の上の飛行機から漁船に連絡したのです。
写真は、海軍払い下げの十年式艦上偵察機(三保)
 連絡の方法は、紙に書いた物を通信筒に入れて漁船に投下する方法だったのです。
『何度の方向、何マイル走ると魚がいる。』とか連絡したら、魚がどんどん捕れたのです。根岸錦蔵は、それから八丈島にも基地を置き、八丈島周辺の海上で魚群探査を行ったのです。」
 当時、清水周辺では缶詰工業が発展し始めていましたが、井口さんは根岸錦蔵の魚群探査がこれにも貢献したのではないかと、考えていると言います。
 
 根岸錦蔵は、昭和5年6月から東京航空輸送社に魚群探査の仕事を奪われてしまいました。この結果、根岸錦蔵は魚群探査の仕事を諦め、雲井龍子も家庭の人となってしまいます。その後離婚されてしまいますが、昭和10年に政財界の実力者・西原亀三翁夫人である実の姉が死亡して、その後釜として西原亀三に嫁ぐのです。
 これに続いて、根岸錦蔵は、気象観測にも乗り出します。
 
「当時は、まだ気象衛星もなんにもないわけです。無線は発達していたので、ロンドンを中心として世界中で無線連絡を取って、地球全部をぐるりと(高層)気象観測を行っていたのです。
 そして東京の高層気象は筑波山でおこなわれていました。関東で高い所は、当時は筑波山しかったのです。500メートルもない所で、関東の高層気象観測は行われていたのです。
 もっと高い所の気象を測りたければ、当時は、まだ富士山の測候所はできていませんからどうしても飛行機でなければだめだったんです。
 そんなことで、根岸錦蔵は、気象台の三保測候所の嘱託を命ずるという辞令を貰うんです。辞令をもらってからは、気象庁から給料が出るんです。
 その前は、サーカスみたいな見世物興業をやったり催し物があると空から写真を撮ったりして、お金を貰っていたのです。
 今度は、測候所勤務になったから毎月給料が貰える。その代り毎日飛行機で気象観測をしたのです。根岸錦蔵は5千メートル上空まで測ったそうです。上空は酸素が薄く大変なことだったのです。」
昭和7年から根岸錦蔵は高層気象観測飛行をはじめた。飛行機は、グロスダーゲームコック型機(静岡県の昭和史より)
富士山観測飛行は昭和7年から1年間、毎日1回実施した。危険も多く富士川口上空で脚が外れ、着陸後転覆したこともあった。(静岡県の昭和史より)
「当時は、酸素ボンベを積んで観測したのですか?」
「酸素ボンベも何にもつけないで、それでも観測したのです。
その後、野中至(のなかいたる)という民間人により富士山でも気象観測が行われるようになったんですよ。根岸錦蔵は、5百メートルおきに気圧や気温を段々に計っていくんですよ。」
飛行機の高度は、富士山頂と同じ
剣ヶ峰の野中観測所
野中 到(のなか いたる)
慶応3年(1867)- 昭和30年(1955)
 1895年2月16日に富士山冬季初登頂を果たし、富士山頂での越冬が可能であることを確信、同年夏に再び登頂して私財を投じて測候用の小屋(約6坪)を剣ヶ峰 (富士山)に新設、中央気象台の技師らも合流した。
 剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と語っている。
 9月末に食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、閉山後の10月に再び登頂。妻・千代子も10月半ばに合流。高山病と栄養失調で歩行不能になる。12月に慰問に訪れた弟の野中清らによって夫妻の体調不良がわかり、中央気象台の和田雄治技師らの救援で月末に両者とも下山し、山麓の滝河原に逗留、村人の手厚い保護を受けたのち、小石川原町の自邸に戻る。
 野中夫妻のこの決死の冒険は評判をよび、小説や劇になった。越冬断念により十分な結果が得られなかったことから、1899年(明治32年)本格的な観測所の建設を目指し、富士観象会を設立、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけた。その後も絶えず登山し観測を続け、野中の事業はのちに中央気象台に引き継がれた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野中到(のなかいたる)
映画『富士山頂』
野中千代子
「高度を変えながら?」
「高度を変えながらだんだん、だんだんと、お互いに連絡を取りあいながら、富士山の測候と飛行機とが同じ高さで確認したのです。
このため、根岸錦蔵は飛行機の上で気温と湿度が測れるようにと、気圧計とか湿度計とか改造したり、六分儀なんかも改造したのです。空を見たり星を見ながらあるいは太陽を見て、自分なりに色んな改造をしたのです。」
「位置を正確に出すために、改造したのですね。」
「そうです。これらのものは東京の新橋の航空記念館にありますよ。」
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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