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 2.蒲原御殿の変遷
(清水歴史探訪より)
 何と、本能寺の変の直前、家康が信長を接待した蒲原御殿。度重なる災害で失われた御殿と、宿場の変遷の様子を示す資料が蔵の中に残されています。
            静岡県歴史の道東海道「大日本五道中図屏風」財団法人三井文庫蔵
「大日本五道中図屏風」
 作成時期は江戸時代前期(1648年頃)に描かれた屏風で江戸から長崎まで陸路・海路が詳細に描写されています。蒲原御殿絵図はこの屏風から蒲原周辺だけを取り出したものです。
 「大日本五道中図屛風(だいにほんごどうちゅうずびょうぶ)というのには、すごく立派に描かれた御茶屋が出てきています。まっすぐ伸びた宿場も出ているんですが、当家の資料の中に、両方の家並帳がありまして、寸法が分かるんですね。それを東京理科大の先生が作図をしたものがあるんですが、ほとんど同じ間口で宿場をそのまま移転することができました。
御殿・御茶屋規模・位置の推定復元図*蒲原城跡総合報告書より作成)
前の『大日本五道中図屏風』と照らせて見てください。
 その屋敷の図面が、今蔵の中にあるわけです。あの西木戸のあたりに、『古屋敷』という地名が今も残っているんですが、古い屋敷ですね。そこから新蒲原の駅前にショッピングセンターがあります。その辺りをずっと通って、蒲原中学校に延びる道、その辺りまでずっと東海道(古い旧東海道)が続いていたわけです。それに沿って宿場がありました。」
 「今で言うところのJRの線路よりもまだ海側だったんですね。」
 「そうですね。海の方にありました。その元禄の大津波(実は高潮)というのは、とても大きな台風で、蒲原宿ばかりではなくて、吉原のほうもとても大きな被害を受けたそうです。」
 「その後、今の場所に移ってきて、蒲原御殿の敷地の跡も宿場になったわけなんですね。」
 「はい、そうですね。ちょうど今、本陣とかお休み処とかがある辺り、そこの大事な場所が宿場の真ん中、御殿屋敷のあった辺りに該当します。」
 「立派なものだったんでしょうね。」
蒲原御殿の位置を推測してみました。
 そう思いますね。私も一回見てみたかったんですけど、全然その遺構も今分からないので、その絵図とか色々な資料から推測するしかないですけれども、大きかったようですね。」
 「例えば、絵図に描かれているものでは、建物がどんなものがあったとか、そういうことは分かるんでしょうか。」
 「朱塗りの家だったり、それから、色々ないくつもの建物が描かれているので、だいぶ広い面積をとっていたようです。いくつもの建物の中に、色々な人たちが住んでいたんじゃないかなと思います。」
 「ぐるりと大きな壁を巡らせているようですね。」
 「そうですね。絵図といえばそれまでなんですけど、この時代の絵図は比較的屋根の形ですとか、色々なものも忠実に描いてある例が多いので、そういうものから推測すると、だいぶ規模が大きかったと思います。」
「今の地図に当てはめると、どんな位置になるんでしょう。」
「そうですね、本陣の近く、お休み処の近くに三居沢(さんきょざわ)という椙守(すぎもり)稲荷のある川があります。そこから、五十嵐邸さんのすぐのところ、若宮神社、あの辺りくらいですね。」
 渡邊俊介さんが執筆中の原稿から蒲原御殿の箇所を頂きましたので掲載いたします。
蒲 原 御 殿
 徳川家康が公けの御殿として建築した蒲原御殿の名は、駿国雑誌に見ることができます。「蒲原御殿庵原郡蒲原駅にあり、神君御在城の時に建てられる。又駿河絵図に云う蒲原御茶屋云々」。当時は御殿もしくは御茶屋と呼ばれていたもので、大名や将軍が領国内の鷹狩・巡察などの際に宿泊・休息・茶の湯興業を行った施設であり、御殿守(番)・御茶屋守を任命し、領主によって直営・管理されていた。
 建立時代は天正10年(1582)頃と推定されますが、この年代はちょうど甲州の武田氏が滅亡し、駿河の国は総て徳川の領地になった年でもあります。駿国雑誌、岳南史によれば「天正10年の戦が終わって、この年4月3日織田信長は大宮(富士宮)を出て富士川を越えて蒲原に至る。浮島ヶ原をご覧あり愛鷹山を右手に見て富士川を渡り御茶屋に酒肴を供しければ信長馬を止めて憩い云々」とあります。又、御殿には天正18年豊臣秀吉も、小田原征伐の折にここに立ち寄ったとあります。天正10年時は今川時代の御茶屋を改修した仮設的な建物で、二代将軍秀忠が上洛のため東海道を往来するたびに拡張、整備され規模も大きくなり、最大時の土地は7480坪と広大であった。建物は表門・東門の正面に入母屋板葺建物2棟、中央に入母屋瓦葺(主殿か)があった。他に御蔵・御守(主)殿その他多くの建物が舎殿がった。上洛の折、この御殿にお泊り所となりましたが、三代将軍家光の寛永11年(1634)の上洛以降は将軍の宿泊はなくなりました。また、寛永12年の参勤交代制度の成立による宿場町の本陣の確立とともに衰退し使用されなくなり元禄期以降には、その機能を停止し、次第に払い下げ等で縮小し、元禄の大津波による宿場移転により蒲原御殿はなくなりました。
 宝永5年には能勢権兵衛県令御殿地の門を町屋敷に渡され、御守殿趾は善福寺へ越える経路の上竹林となれる所を除き十間に十三間、其の外御結米庁跡を開発あり、今に山宮大門通りを御殿道云、表御門の跡なるべしとあり。この宮地は宝永5年民間に払い下げることになりました。結城氏所蔵の古文書によると、その表紙は宝永五歳蒲原御殿地所畑屋舗改帖駿府承口とあり、時の配領から願により、間口三十間の御殿地を、半エ門、四兵衛、八三郎、長右エ門の五人の町人に払い下げられた事が記録に残っているとしています。
 この蒲原御殿跡は今の本町の若宮神社周辺(当初の場所)から山居沢までとみられます。先年この附近で井戸を掘った所、地上から八尺くらいの所から石垣が現れ、末広がりに裾が開いて二十四尺迄矢の入った石が積まれ、その底に松丸太が敷かれてありました。
 又、本町の南側の窪地は、昔からイカリマと云われる沼地でしたが、元は蒲原御殿外堀の跡だと伝えられています。
因みに由比宿の御殿は現在JAがある辺りが御殿であったと云われています。
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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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