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 5.難攻不落の蒲原城の落城
(清水歴史探訪より)
 
一方、蒲原城とはどんなお城だったのでしょう。
 
 
 「実は、この神社の入り口の左手に細い道があります。
 今、入ろうとしている道ですが、当時も細さはこんなもんだったと思うんです。ここが、蒲原城の大手門の方に行く道です。ちょうど斜めにこう上がっていきます。ちょっと狭い道です。この道が、大手門に登って行くただ1つの道だったと言われていますね。
 だから、非常に攻めにくいですね、このお城は。
蒲原城跡の看板
 『駿国雑志』(吉見新版)所載『蒲原城攻の図』
 
 さらに、ここを登っていっても巨大な砦(とりで)が途中に待ち受けているんですよ。その砦を突破するということ自体、あの武田信玄でさえ躊躇したと言われております。
 ということで、攻めていくにも攻めていけないという風なお城ですね、このお城は。
 ただ、弱点が1つだけあります。お城の後ろの方からは、攻められることできます。敢えて言うとそこだけが弱点です。
 実際に、そこから攻められたのです。
 
 
蒲原城へはまず蒲原城址の駐車場へ
駐車場には極めて簡単な地図がありました。
蒲原城址にはこの細い道を歩かねばならないのです。
途中景色が良さそうな所がありました。
木が刈ってあると、この空堀の向こうから丸見えで、攻撃対象になってしまいます。
ようやく山頂に到着。『本郭南曲輪(ほんかくみなみくるわ)』の看板がありました。
本郭南曲輪(ほんかくみなみくるわ)に建つ城山八幡宮。
木が覆い茂っておりましたが、何とか下の海岸が見えました。
 実はこういう話なんです。あまりにもこの城が堅固だということで、それではおびき出そうということになったのです。(武田軍が)蒲原の本陣を、六本松いわゆる今の蒲原中学校のあたりに置いていたんです。
 そして、「この城をそのままにして薩った峠を通って駿府の城の方へ行こう」ということで触れ回ったのです。そして、先陣とかそういったのはもうずんずんずんずん由比の方へ移っていったんですよ。
 それを見て、北条新三郎という城主が、そうしてはなるものか、ということで追っていくような形になるんですよね。それで、先陣のほうと本陣の間に入って行って、逆に挟み撃ちになっちゃたのです。
 その間に、勝頼軍が城の背後から攻めてきました。その時に城に残っていたのは、たぶん200人に満たなかったんだろうと言われております。しかも、女子が多かったのだろうと言われております。
 ですから、(武田軍が)攻めて来た時には、(城には)守りの人はほとんどいなかったようです。
 
 武田勝頼軍が隠れていた場所を案内して頂きました。少し横に行くと蒲原城からは見えません。
 
 その結果、城が突破されてしまいます。もちろん、城の中には武田に呼応するような人もいたようで、城から煙が上がったのです。その煙を見て、北条新三郎が戻っては来るんですが、戻ってこれたのはせいぜい28人前後しかおりませんでした。
 それでも、闘ったのですが最後は10騎余りとなりもはやこれまでということで、蒲原のお城でみんなで切腹して死んだそうです。
 そんな風なお話も残っていますから、ほとんどの人が亡くなったんじゃないかという風に言われていますよね。」
 
 
写真は、蒲原城主・北条新三郎
『武田軍記』渡邊和子(まさこ)さんが、現代文に訳したもの
蒲原城攻防戦
 永禄12年(1569)1月、北条氏康、氏政父子は、武田信玄が駿河を横領した無道を責めて、4万5千の兵を率い、小田原から駿河に入り、順次陣を取って蒲原城をも陥入れ、この城は氏康の信頼厚い北条新三郎という勇士を主将に、新三郎の弟の箱根少将長順と共に守らせ、塁を高くし、溝を深くさせました。
 ところがその年の半ば頃、武田信玄が駿河を奪還しようとする気配が見えたので、氏康は蒲原城に大郭を築いて、兵を募って益々守りを堅くさせたのです。
 12月4日信玄は本栖街道から大宮、岩本を経て先ず岩淵の宿を焼き、蒲原に押し寄せました。そして城中に使者を送り、城将北条新三郎に「此の度、所々の城々何れも明け渡し候間、当城も渡すべし、兵卒及び城を渡さば、子を護って小田原に帰らしむべし」と、通告しました。これを聞いて新三郎は怒って「予はいやしくも関東に勇名を顕はしたる北条三郎長綱入道幻庵が倅なれば、自余の者とは違うなり、新三郎、命ある限り得こそ渡すまじ、城望み候はば、一戦を研ぐべし」と答えました。信玄は城の堅固なのを見て「この城要害堅固なれば宜しく説いて降すべきなり」と重ねて使いをやりましたが、新三郎はききいれません。
 そこで信玄は一計を案じ、武田勝頼と小山田備中守昌重に兵を分け、小山田の兵は囲みを解きながらワザと大声で「明日は駿府の城に取り掛るべし、此の所蒲原は重ねての儀になさるべし。ここに於いて人数を損じ、駿府の城に手間取っては旁々以っていかがや」と触れながら、5日の夜中に立って海岸沿いに西へ進み、夜明けに由比倉沢に着きました。その中の小山田将監の率いる5百余人の兵は先陣となって旗本から離れて先行し、浜須賀に行っていた。城将北条新三郎は(敵が僅かの城を軍勢で押通るを見物しては通すまじ)と、城の精兵千八百を悉く率いて、城門サツと押開き、先陣と旗本の間に突き入りました。
 すると小山田は事が筋書通りになったので倉沢から引返し戦ったので城兵は(サテハ敵の計略であったのか)と知り、新三郎初めとし死を決して戦ったので、甲州方にも相当の痛手与え、小幡弾正や、甲州兵を多数討ち取りました。
 その頃、それまで栗の木平に隠れていた武田勝頼の軍は、城兵が城を出たのを見届けて、道場山から進んで城を取り囲みました。その時城に残っていたのは、老兵と婦女子を併せて二百人計りで、防ぎきれず、追い詰められて逃げ場を失い、裏山に向かって布で橋をかけ、布橋にすがって逃げ出しました。やがてそれを甲州兵に見つけられ、その命の綱を断ち切られたから、憐れな人々は阿鼻糾喚のうちに、重なり合って向田川の数十丈の崖下に落ちて死にました。そのため向田川は朱に染まり、幾日も血の流れが続いたそうです
 しまったと、街道に出て戦っていた新三郎初め城兵は、城に立てこもって戦おうとして引き返して城に逃げこんで行くが、甲州方の追撃激しく、今は味方も主従28騎となる。新三郎は弟箱根の少将他全員を前後左右に従え真一文字に切り込み、死にもの狂いで戦うも多勢に無勢、味方は減り10騎余になってしまった。新三郎はもはやこれまでと主従10余騎腹を切ったと武田軍記は伝えています。この戦いで新三郎を始め711騎が討たれました。その他にも殺された人もおり千人前後の人が亡くなったものと推測されます。
 また別の説では(もはやこれまで)と新三郎は、山伝いに東町諏訪神社横の小高い処にあった常楽寺に入り、寺に火を放って焼き、その中で自刃したとしています。
 
 これ以降、岩戸山常楽寺は廃寺となり、檀家は瑞現山竜雲寺に合併され、山号を改めて、岩戸山竜雲寺というようになった。
 常楽寺跡の丘の上に北条新三郎の墓が残っていて、その戒名は「常楽寺殿衝天良月大居士」である。その時一緒に葬った38名の過去帳と位牌が善福寺や龍雲寺に残っています。
渡邊俊介さん執筆中の原稿から『蒲原城跡』の箇所を頂きました。
蒲原城跡
 蒲原城は、旧蒲原町のほぼ中央にある標高137mの城山三町に本郭を置き、その周辺を
 階段のように峰を削った出曲輪(でぐるわ)で固めています。自然の条件に恵まれた峰式の山城で、戦国のころの難航不落の城として知られ、現在も城の跡が残っています。この城は、天文年間(1532-1555)の初め、駿河の今川氏が、河東の乱を予想して、ふもとに居館を備えた山城として築かれたと思われます。
 城域の北側から善福寺区へは峰つづきで、この城の最大の弱点になっていましたが、堀切や大・小の帯曲輪で補強しています。
 永禄11年(1568)11月、駿河今川氏最後の当主氏真は、甲斐(山梨県)の武田氏の駿河侵攻の前に服従します。翌12年1月、今川氏と軍事同盟者の北条氏が駿河に進出し、蒲原城には北条新三郎が入城します。しかし、同年(1569)11月武田氏が三度駿河侵攻し、同12月6日、武田氏の城攻めにあって落城し、城は武田氏のものとなります。そして、永禄13年(1560)5月、武田氏に屈服した土豪や小領主」たちを統合して「蒲原衆」を編成し、この地方の治安の維持に当たりました。その後、蒲原城は天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の攻撃によって落城し、城は徳川の管理下に置かれました。天正18年(1590)7月、徳川氏が関東を移封された後に、城は廃城になりました。
 「この蒲原は、東海道、東西交通の中で非常に重要な位置だったんですね。」
 「そうですね。東を向きますと、北条が隣(となり)にいます。戦国時代の天文5年(1536年)から天文14年(1545年)までの間に、いわゆる河東(かとう)の乱が起きております。
 北条軍が今川領に侵入してきたのです。富士川の東、いわゆる河東の地域は北条に占領されてしまいます。北条軍に、富士川のこちらの方を侵略されないように食い止めることが蒲原城の役目でした。
 
 地図を見ると、蒲原は微妙な位置で、甲相駿のどこに所属しても不思議はないですね。
 一方、北の方へ目を向けますと、武田軍がやはり虎視眈々と狙っておりました。
 蒲原城は、北条、武田の両方に、目を配りながらこの地域を守っていたのです。さすがの信玄も、この城をまともに落とすことというのは避けたという非常に堅固な城でした。この蒲原城は、何とか防御の役目は果たしていたんですが、残念ながら信玄の策略に引っかかって落ちてしまったということになっています。」
 「何か遺構は残っているんですか。」
「えぇ、本丸の跡とか、善福寺砦とか、二の丸、三の丸、砦の跡そういったものの遺構は今残っています。
 城好きな人たちは、『ここを自分が攻めるんだったらどういう風な形のところに攻めこんでいったらいいのか?』とか、『砦がどういう風に作られていて、守りの方からすると、どういうところを守っていけばよいか?』とか、、考えながら登っていくという、面白い所です。
 
 写真はのろし場に造られた物見台。ここから蒲原城と周りの風景全体が展望できます。
 
 とにかく蒲原城は東海道で一番の堅固な城という風に言われましたから、そのお城の守りを見ていただきたい、とそういう風に思うんですけどね。」
 
 広大な敷地をもち、信長も訪れた蒲原御殿と、武田信玄の策略によって落城の憂き目を見た、蒲原城。
『兵(つわもの)どもが夢の跡』は、この春もあでやかな桜の花で彩られます。
 
 お話は、木屋江戸資料館 館長の渡邊和子(まさこ)さんと代表の渡邊俊介さんでした。
 
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

 お相手は、石井秀幸でした。
 この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いの税理士法人いそべ会計がお送りしました。税理士法人いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
 
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税理士法人森田いそべ会計
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