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編 集 後 記
 本来ならば、まだまだ続けるべきでしょうが、体力の限界を考えて『清水歴史探訪』と『清水歴史散策』を終了させて頂きます。現在、私は69歳で未だ現役で仕事を続けております。仕事を控えて『清水歴史散策』を続けることも考えたのですが、私の業務は簡単に手を抜くことは許されない業務であり、私自身も手を抜くことは好きではありません。
 さらに、私のもう一つの趣味でありますバラの栽培も、地域に根付いており、簡単にやめられそうにありません。そこで、やむをえず『清水歴史散策』を終了することになったのであります。
 結果として。『清水歴史散策』が中途半端な形で終了することになったのであります。
 最後に、やり残した『清水歴史散策』について自分自身の想いを書かさせて頂きます。
 
やり残した清水歴史散策
御 穂 神 社
 清水区三保にある神社。式内社、駿河国三宮で、旧社格は県社。
三保の松原の「羽衣の松」に関係する神社として知られる。「みほ」の字は、「御穂」のほか「御廬」「三穂」「三保」にも作る。
 神社境内と参道(神の道)は、世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ「三保の松原」の範囲に含まれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 御穂神社は清水では、久能山東照宮と並ぶ名所であります。昭和48年に書かれた田中雨石さんの『ふるさと散歩』には次のように書かれている。
 
御穂神社 清水市(区)三保
 御穂神社の社名が延喜式神社名簿(901~22)に記載されている、というから、少くとも1,000年以上の長い歴史を持つことになる。
 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・大国主命・三穂津姫命である。天智天皇の時代百済(くだら)を救うために船団が船出(663)したところ三保の沖で船が進まなかったという伝説、また平安中期の頃住吉神社神官が入江浦で風に遭い、御穂神社の怒りを解いてから出帆が出来たという伝説などから航海の神とされている。又漁業の神とも言われている。平安初期以来従1位・従3位の神位を与えられ、中世に至って武田、豊臣、徳川等武将の信仰もあつく、江戸幕府から106石の朱印地と臨浜29ヶ所・舟2そうなどを与えられている。社殿は王朝時代は国司が修造し、武家時代に入って鎌倉幕府が造営したが、戦火で消失し、徳川家康の代に至って本殿以下10数棟を寄進したが寛文年間(約290年前)失火し、悉く消失すという。宝物殿には、無銘ながら(三条小鍛治宗近作ともいう)糸巻きの太刀は重要文化財になっている。その他<羽衣の裂(キレ)><羽衣の笛><鎮西八郎為朝使用の大壺>等が所蔵されている。
 御穂神社と関連のある話として神社の神官であり、三保の領主であった太田氏のことどもと、義人藤五郎の逸話があるが、いづれ稿を改めて書かねばならぬものであろう。
 ◇案内=清水駅前より三保行バスで「三保松原入口」下車。徒歩5分。
 
 
三保の松原と羽衣の松
 三保の松原は、静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地であります。日本新三景や日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されております。
 また、羽衣の松は、現在3代目とか言われますが、実際には何代目になるかわかりません。付近には「神の道」と呼ばれる御穂神社まで参道があり、約500m松並木が続きます。
 三保の松原は、第十一話の『羽衣伝説とエレーヌ夫人』で取り上げましたが、もう少し踏み込んで『三保の松原と羽衣の松』を取り上げて見たかったです。昭和48年発行の田中雨石さんの『ふるさと散歩』には次のように記載されております。
 
三保松原=羽衣松=羽衣伝説 
 清見寺から眺める一文字の松原、日本平から望む一帯の松原・・・・・・そして与謝野晶子の<伊豆霞み三保の渚のしら浪のほのかなるより山ほのかなり>に詠まれた三保の松原。東に霊峰富士の山、それに連なる伊豆の山々、前面に洋々と拡がる太平洋、この風景の裾に延々と伸びる樹齢1,000年を保つ黒松林の中にある伝説の<羽衣の松>。
 話の内容は多少異なるが<羽衣伝説>は世界中にも幾つかあり、日本の各地にもあるが、特に有名なのが三保の天女の羽衣である。ということも、こうした風光明媚の地に在ったればこそであり、旅人の詩情もひとしおであったからではあるまいか。
 羽衣伝説の概要は、漁師白龍が浜辺を歩いていると、松(羽衣の松)の枝に美しい衣裳が掛かっていた。白龍が持ち去ろうとすると天女が現われて、返して貰いたいと頼む。白龍もその天女の美しさと熱心な頼みに、衣裳を返すと、お礼にと言って天女の舞を舞いながら天上に消えて行ったというのである。一説の挿話に、白龍が「羽衣を返したら、舞わずに去るであろう」と言うと、天女が「天にいつわりはないきものを・・・・・・」の一節がある。
 現代では、このような非科学的な話を信ずる人はなく、唯美しい風景の中の美しい話として聞き流しているだろうが、このような伝説が生まれるにはそれなりの根拠があるのである。これらを学術的に究明していくのが考古学である。
 杉山先生のお話によると、羽衣伝説を裏づけるための研究として2つの条件を示される。
 1つは<白浜遺蹟>から出土した鬼高式土器という大型の甕(かめ)(約1,400年前のもの)がどんな目的で使われたか、ということである。4世紀から5世紀にかけて朝鮮、中国からの帰化人が、三保の砂原の不毛の地に在って食糧を得る為に米と交換する必要からここで製塩を行ったと考えられる。
 2つ目は地名から来る現在の<折戸>は<織戸>に通じ、帰化人が織物に長じたことを裏づけ<駒越>は<高麗(高麗)>に通ずることは当然とすれば、三保に帰化人が住んだことは立証される。
 次に<羽衣>とは美しい着物という意味で帰化人が着た綾とか錦とかいう布を羽衣、と考えてみれば異国の女性が美しい衣裳で踊る姿が天女の舞に見えた、と考えられよう。御穂神社に在る「羽衣の裂(キレ)」は西域地方=印度・チベット=の舞の衣裳だろうとされている。尚舞についても「駿河舞」の話もあるが、後日に譲ろう。
 尚ここに<エレーヌ・ジュクラリスの碑>はフランスのバレリーナの像で、彼女は日本の能楽を愛し、特に「はごろも」の優美さに惹かれ、欧州各地を能狂言を上演しつつ日本の能楽を紹介した。1961年まだ見ぬ「三保」にあこがれつつ35才で死亡した。夫はこれを哀れみこの慰霊碑を建てた。手に持つは羽衣の能面である。
◇案内=清水駅よりバス三保行で「三保松原入口」下車。徒歩10分。
 
 
 
月見里稲荷といちろんさん・でっころぼう
 月見里稲荷とかいてやまなしいなりと読みます。今では清水の人からも忘れられた月見里(やまなし)稲荷。
 そして、私の子供の頃は郷土玩具として有名だった『いちろんさん・でっころぼう』
 今ならまだ『月見里(やまなし)稲荷』や『いちろんさん・でっころぼう』の話が、詳しく聞けるかもしれませんが・・・・・・
 昭和48年発行の田中雨石さんの『ふるさと散歩』には、月見里(やまなし)稲荷といちろんさん・でっころぼうの話が載っておりました。
 
月見里(やまなし)稲荷 附=いちろんさん・でっころぼう
 源為朝(鎮西八郎為朝)
 「清和天皇7世の皇孫、鎮守府将軍陸億守源義家朝臣の嫡孫、六条判官為義の八男、冠者為朝と聞えしは、智勇無隻にして身の丈七尺、豺の目猿の臂、膂力人に勝れて、よく九石の弓を曳き、矢継早の手練なり。・・・・・」と、曲亭馬琴は、その名著<椿説弓張月>で源為朝の系図と勇武を讃えている。
 何時の時代に於てもそうだが、英雄豪傑はもてはやされ、この弓張月のような戯作も出版され、いろいろな伝説も生れる。
 清水―当時は(約800年前)、現在の清水市(区)の中心は殆んど海底に在って<駿河の海の湊>といわれていた頃―にも為朝についての伝説が2、3残っている。
 為朝が保元の乱(1156)に藤原朝長に父為義とともに味方して破れ、捕えられ伊豆の大島への流罪の時、舟出は現在の下清水八幡神社(当社のことは別記にあり)前の舟着場からだったと言われる。
 ところが出発の前夜から海が荒れ始め5、6日延期となった。この滞在中の宿舎が月見里稲荷であり、この時試みに弓を射たところ矢部の部落を越えて川洲(巴川)に達したといわれ「矢通り」の町名がその名残りという。そして出発に際して滞在中世話になった神主に愛用の石印と傘を残したのが今でも在る。
 
 ここでもう1つの話につながる。その頃京都の武士の流れを汲んだ人が入江の庄(清水市(区))に住んでいて市郎右衛門と名乗り似顔絵を巧みにつくる人形師だったという。
 その人が為朝の似顔絵像(首)を創作した。今昔を問わず強い人には人気の集るもので、それが偶像化され、象徴化される。
 為朝もその例に洩れず、江戸時代に<為朝さまお宿>と書いた札が町家の軒先に張られたのは、為朝はホーソー神より強いとして疱瘡除けの護符とされた。
 清水では、この月見里稲荷に参詣し為朝にあやかって強い丈夫な小児であるように、と似顔絵像を拝み、願いがかなった時はお礼に像を納めた。(今でも色ははげ、顔かたちもはっきりせぬものが洞内に10何体か奉納されている)。
 このいわれによる「いちろんさん・でっころぼう」が7代目堀尾市郎衛門の手によって入江町で、郷土玩具として、政策されている(生業は青果業を営んでいる)。
 首人形の種類は多種多様で武者、奴、天神、鬼、天狗、おかめ、河童、だるま、猫、坊さん等があり、素朴で愛くるしい郷土人形であるが、さてどれが為朝の似顔かというとそれらしいものは見当たらない。
月見里(やまなし)稲荷
いちろんさん
でっころぼう
 別の話として、為朝が伊豆の大島で討死した。というのは表向きで、白縫姫とともに三保に逃れ、隠れ住んで生涯を終ったともいい、御穂神社に為朝の使ったというツボとお椀があり、本村に白縫姫の墓というのもある。何れにしても伝説として聞いて置いてよかろう。
◇案内=清水駅よりバス「市内循環」「日本平線」他にて「三五(あなない)教前」下車。
同協会前を通って奥側に、緑の樹々に覆われたかなり広い境内の一段高く本殿がある。
 
 
下清水八幡宮
 実は、この神社初めて聞く神社なのです。しかしながら、かなり由緒のある神社のようです。清水には、私の知らない歴史がまだまだありそうです。
 この神社のことを知ることになった昭和48年発行の田中雨石さんの『ふるさと散歩』より記載いたします。
 
下清水八幡宮=列祖殿跡之碑 清水市(区)下清水
 現在の巴川(或は清水港)からは想像も出来ない程、豊かな水量はその流域を洗い、海水が深い入江となって陸地に迫っていた頃、現在の入江浜田はその名の示す通り湊であった。
 そこに建つ下清水八幡神社の由緒は斉明天皇時代(665)イオハラ氏(清水国王)が会場保全を祈って、住吉大臣を祀ったに始まるという。文治年間(1185)梶原景時が八幡大社を祀り、八幡神社と改称せりと伝えられる。
 入江の浜に浪がひたひたと打ち寄せる頃―入江岡の橋際に在る淡島神社の巨大な楠と下清水八幡神社の大楠と、村松の楠の三本を結んで、中央の1本を目指して船をすすめれば下清水の船着場に着くという航海するものにとって重要な陸上目標であった。
 当社の大楠は清水市(区)指定文化財として、樹令900年、根廻11米を誇り亭々として聳えている。
 
 境内に<列祖殿跡之碑>がある。慶長14年(1609)徳川頼宣が父家康のために造営した<清水浜御殿の趾>(現、隣接カトリック教会の場所)に後人が追慕して建てたものを昭和40年現在地に移し建てたものである。
 浜御殿は御殿造りの華麗を極めたもので清見潟の眺望を楽しんだものらしいが、家康の死後頼宣も紀州に移封となって、この建物は駿府の沓谷(くつのや)に移築され蓮永寺となったが火災で消失した。
 余談だが源鎮西八郎為朝が伊豆の大島に流罪になった時、この浜から船出した、とか言われる話にまつわる地である。
◇案内=清水駅よりバス日本平線、市内循環で「35教前」(あなない教前)下車。
徒歩3分尚附近に「月見里稲荷」がある。
 
 
大内観音
 長く清水に住む者は、大内観音の名前だけは知っていると思われます。しかしながら、実際に行ったことがある方は少ないのではないでしょうか?
 大内観音について、詳しく説明できる方は今ならまだいると思いますが、だんだんと忘れられていくような気がします。
 昭和48年発行の田中雨石さんの『ふるさと散歩』から記載させて頂きます。
 
鷲峰山霊山寺(大内観音) 清水市大内
 大内山=一名帆掛山=の中腹(150米)に在る古義真言宗の古刹で、開山は僧行基により天平勝宝元年(749)創建され、本尊の千手観音は駿河(安部)七観音の1つである。
 本県第2の古い建物である仁王門(重要文化財)は永正13年(1516)建立された。この建築は室町末期としては珍しい優美さと雄大さを兼備し、単層(平屋根)の寄棟造の茅葺で間口5.45m(3間)奥行2.64m(2間)の6坪9勺の小さなものだが扉の上の蛙股には力強い手法が見られ、3手先のマス組は珍しく、そのため小さな門が堂々たる外観を呈する。門前面の密迹(みっしゃく)那羅延(ならえん)の両金剛は江戸初期の造像とされている。
 鰐口(ワニグチ)(県文化財)は天正10年(1577)石井対馬守の銘がある。直径35.8CMの青銅製である。
 本尊の平安時代(藤原期)の作といわれる(重要文化財)千手観音は高さ1.05M(3尺4寸5分)の立像で、頭と両手は一本木で彫り出してある。顔つきや体にまるみがあり、まゆはスミでえがかれ朱が入れてある、という。
 麓からの33曲りの石段は自然石が多く、段も高いので登り難いが、本堂の大悲閣からの駿河湾を囲む伊豆半島から、三保の松原、日本平の眺望は良い。現在は無住寺で兼務住職は音羽山清水寺(静岡市)の吉井師である。
 ◇案内=清水駅西北5.5K。清水駅よりバス「北街道廻り静岡行」にて「大内観音入口」下車。
本堂登頂まで約40分~50分。

 註=仁王門の茅葺き屋根が破損したが、昨年(昭和47年2月)葺き代えられた。又、最近左側の土がくずれたが石垣を積んで直された。
 つづら折りの石段を登るのは、かなりきつい、しかし地元民の愛護の気持がうかがえる「もう少しだ頑張れ」の立札は、ほほえましく、元気づけられる。
 頂上、本堂からの眺めは又格別
 
 
清水袋城
 
 清水区の本町に、清水城,とも言われた清水袋城がありました。現在は遺構も全く残っていなませんが、上総(かずさ)稲荷神社の所に「旧袋城の石」と記された石が置いてあります。
この袋城も研究している方の説明を聞いてみたかったです。
 昭和48年発行の田中雨石さんの『ふるさと散歩』から記載いたします。
 
袋城跡 清水市(区)巴川筋
 戦国時代の武将が天下の覇者たらんとする為には京都に上って勅令を得ることが宿願だった。武田信玄も、その路線を開拓す可く、着々と計画を進めた。
 彼が初めて駿河の国を手中に収めた時「我れ海を得たり」と快哉を叫んで、直ちに江戸城(現小芝神社周辺)の築城と共に永禄13年(1570)に巴川河口に袋城を築城をした。
 巴川河中に半島状に突き出して築かれた非常に珍しいもので、山本勘助流のなわばりによって馬場美濃守(現美濃輪町の町名が残る)によってなされたという武田氏の水軍の根拠地となり、北条氏の水軍に備え、勝頼が北条氏と戦った時、袋城海賊衆(海軍の意)は梶原景宗の水軍を破り、伊豆の沿岸にも侵入し郷村数ヶ所を襲撃せりという。
 武田氏の滅亡後、徳川氏の手中に帰したが、秀吉が小田原攻撃の際には水軍の根拠地となり、前進基地となって長束大蔵正家を奉行として水軍が集結せりといわれる。
 慶長19年(1614)に廃城となり40余年の幕を閉じた。現巴川筋に美濃輪町、袋町の町名がその名残りを存す。
 「上総(かずさ)稲荷」の前に当時の袋城の石として置かれているのが、写真のそれである。尚清水市(区)本町あたりの地下1、2mを掘ると、当時の石垣と思われる石の列にぶつかるという。上総稲荷あたりの町名を「袋町」という。
◇国鉄清水駅より電車なら「港橋」終点下車。バスも同様。
西岸に「上総(かずさ)稲荷」が有る。
 
 
甲州廻米置場跡(こうしゅうかいまいおきばあと)
 かなり昔、清水に山梨県の県有地があると聞かされました。それが、ここです。
 しずおか観光情報には「巴川河口の甲州廻米置場跡の石碑が建っている場所は、江戸時代に甲州や信州からの年貢米が集められた場所です。石碑の向かい側には今でも山梨県の県有地があります。」と記載されております。」
 昭和48年発行の田中雨石さんの『ふるさと散歩』から記載いたします。
 
甲州廻米置場跡 清水市(区)港町

 「清水町誌」によれば『甲州貢米置場は、本町向島にあり、湊橋附近の地なり。今山梨県有地となる元甲州より江戸へ廻送する貢米(みつぎまい)は富士川を下し、清水より江戸へ廻送せしなり。甲州御三分様御用と称し、本港より江戸積迄の運賃は本港諸問屋職の義務に属し、問屋北村仁右衛門(今の北仁運送店は其の後なり)これを取扱へり』とある。
 甲州で獲れた米を三代所(市川大門・石和・一丁田中)に納入し、富士川を下り、岩淵で降ろし蒲原まで陸路で、またここから舟路で清水港に運び、ここを仲継ぎ所にして江戸へ運んだ、その跡である。
 現在巴川対岸(西岸)に在る上総(かずさ)稲荷は、この廻米置場の北隅に在ったという。現在もこの辺りは山梨県有地である。
◇案内=国鉄清水駅より電車又はバスにて「港橋」下車。電停前西側。
 
 
 取り扱いたかった『清水歴史散策』は、まだまだたくさんあります。清水みなと祭りの歴史、清水の灯ろう流しの歴史、清水の古道である久能道やしみず道なども取り扱いたかったです。
70年の歴史をもつ清水みなと祭り
清水みなと祭り
250年の歴史を持つ清水巴川の
灯ろう流し
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
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