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知っておきたい清水の歴史 第2話

第2話 真砂町の米騒動・焼き討ち事件

今日は、知っておきたい清水の歴史として、真砂町の米騒動・焼き討ち事件の話をしてみたいと存じます。

1.駅前銀座の誕生
清水駅前銀座商店街は、終戦直後にできた闇市(みなとマーケット)が中心となってできました。私の子供の頃には単に真砂町の商店街と呼んでおりました。
では、戦前の真砂町はどんなだったでしょうか?戦前は、田んぼと畑の中に住宅や商店・飲食店が点在する田舎町だったようであります。さらに、大正時代までは、清水駅の前身の江尻駅が、踏切近くの今の駅前銀座商店街のはずれの方にありました。
そのような田舎町の中に、スイチさんといわれた豪商の自宅や倉庫・店舗・工場が、江尻駅の前にありました。ミナトマーケット(今のマンション・ベイタワー清水)から商店街のはずれまでが、スイチさんが江浄寺と法雲寺から借りていた土地でありました。

2. 米騒動と焼き討ち
本日は、大正時代にこのスイチさんの建物が、米騒動の対象となって焼き討ちされてしまったというお話です。
最初に、スイチさんの紹介をさせて頂きます。スイチとは屋号で、ハの字の上を交差させて下に一と書いたマークを、スイチと呼んだのです。事業は、お米・お茶・みかんと幅広く営業しておりました。スイチさんは望月兄弟商会という会社となりましたが、一族の経営で最も有名なのはアオキトランスです。大正時代に経営を引き受けた青木運送株式会社がその前身です。青木運送は、オレンジキングと呼ばれたスイチさんの運送(輸出)部門だったのです。

3. なぜ米騒動が起こったのか
次に、米騒動事件の背景を説明します。
最近は、食生活が変化し始め、主食のお米離れが進んでおります。
では、昔の日本の食生活はどうだったのでしょうか?江戸時代は、首都の江戸ではお米が主食でしたが、田舎ではアワ・ヒエ・麦なの雑穀が主食でした。


お米(白米)だけ食べていると『脚気』という病気にかかります。当時は、原因不明だったこの病気、主に江戸でかかったため『江戸わずらい』と呼ばれていました。
明治に入ってからは、徴兵制が始まりました。日本軍の主食は、白米でした。軍隊に入隊して初めて白米が食べられた人も大勢いると思われます。ところで、欧米の軍隊はパン食が中心で、日本軍だけが『脚気』に悩みました。『脚気』の原因について、かの有名な森鴎外陸軍軍医殿は細菌による風土病と主張しました。このため、陸軍の主食はあいかわらず白米だけで、日露戦争では戦死者約4.5万人に対し、脚気患者の死亡者は約2.7万人との記録があります。これに対して、海軍では食事が原因と考え、麦を混ぜたのです。陸軍の銀シャリと海軍の麦飯と日本軍の対応の違いは、現在の日本の官公庁に、縦割り行政という名前で引き継がれております。話が、少し脱線しました。
米騒動の背景に戻します。時代と共に豊かになった日本は、主食は雑穀からお米にシフトしていきました。その結果、第一次世界大戦当時には、米価の高騰が起き始めたのです。

4. 米騒動の直接の原因とは・・・
では、米騒動の直接の原因は何だったのでしょうか?
大正6年(1917年)の第一次世界大戦の最中、ロシア革命によりロシアはボリシェヴィキ(共産主義者)が指導するソビエト連邦となりました。
これに対して、日本国政府は、ボリシェヴィキ政権を支持しない白軍と呼ばれる反革命勢力を支援するためにシベリアへ軍隊を派遣することを決定したのです。そして、お米の軍用調達を始めました。
この情報をいち早く入手した商人たちは、戦争特需による物価の高騰を見込み、売り惜しみにより、米価の高騰が一段と強まっていきます。

5. 最初の米騒動 富山県魚津
大正7年(1918年)、最初の米騒動が富山県魚津で起こりました。
魚津観光協会の資料には、『大正7年7月23日、北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まり、「米の値段が高くなるのは、県外に米を持っていくから魚津に米が無くなるのだ!」と、米の積み出しを止めるように要求し、このため米の搬出は中止されました。
この事件が新聞に報じられ、米騒動は近隣の村や町、1道3府40県に及ぶ全国的な米騒動に発展し、その後、内閣を総辞職に追い込む事態に発展しました。』との記載があります。

なお、魚津では、旧十二銀行米倉を米騒動発祥の地として顕彰しています。当時は、お米はお金と同じぐらい大事なので、銀行の倉にお米があったのです。

6. 真砂町の米騒動
それでは、真砂町の米騒動の話をいたします
各地で米騒動が起き、清水でも不穏な動きが続きました。大正7年(1918年)8月14日小芝神社で集会が始まりました。夕刻には1,000人を超す群衆が集まっていました。この集会は、騒ぎを起こすことに生きがいを感じるその道の専門家が先導しておりました。アジテーターが声を上げるたびに、熱狂した群衆はこれに呼応し、興奮した群衆はもはや手が付けられない状態になってしまったのです。少人数の警察官では、とても抑えきれない状況になってしまいました。

7. 小芝町のカネタカ米店
アジられた群衆は、まず小芝町のカネタカ米店を襲いました。危険を察知したカネタカ米店の店主は、米蔵をすべて開放して『後払いでいいから好きなだけ米を持っていけ!火だけはつけないでくれ!』と大声で叫んだそうです。
ところで、このカネタカ米店の店主は、字がとても上手で近所の子供達に習字を教えていました。お米屋の副業で、習字の道具や文房具なども販売しておりました。現在のカネタカさんはコンピューターを中心に商いを営んでおりますが、清水では文房具のカネタカと知られております。
8. 真砂町のスイチさん
群衆が向った次の標的は江尻地区一番の米蔵を持つ真砂町のスイチさんです。スイチさんはこのような事態を想定して日頃から、困窮者には無料で米を施しておりましたし、襲われる前から警察や消防に出動してもらっておりました。
さらに、軍用の備蓄米があったためか、少人数ながら軍隊までもが出動しておりました。
興奮した群衆は、首謀者の合図の下に一斉にスイチさんに押し寄せました。事務所や倉庫を囲んで気勢を上げ、お米の強奪を始めました。群集心理とは不思議なもので、悪いことだとわかっていても、過激な行動を取った者を称賛する傾向があります。
興奮して狂ったような男が火をつけると、群衆は『おお~』と声を発しました。火をつけた男は英雄気取りで、これを見た者がさらに石油缶を投げ込み、あたり一面が火の海となってしまったのです。
この時、火のついた自宅の二階から助けを呼ぶ声が聞こえ、スイチ一族の一人かねさんが、逃げ遅れたことがわかりました。
かねさんは必死になって助けを求めましたが、なすすべがありません。
そこへ辻町の藤やんと呼ばれた人物がやって来ました。藤やんは危険をかえりみず、庭にあった植木を揺さぶり続け、ついに二階の窓に押し付けることが成功しました。

お陰で、かねさんはその木をつたわって、九死に一生を得ることができたのです。
一方、軍隊は野積みされた軍用の備蓄米を、銃剣を構えて守っておりました。このため、興奮した群衆も手出しできませんでした。また、警察は矢立 (やたて)という携帯用書道具を使って、首謀者や火をつけた連中の着物の背中に、印をつけておりました。
 その後、この印を目じるしに首謀者や暴徒達が、27名逮捕されました。首謀者は大阪から来たようでしたが、清水の逮捕者は職人、日雇い、商人など普通の市民だったのです。

9. 新聞規制が引かれる
 真砂町の米騒動・焼き討ち事件をはじめ、その後の米騒動・焼き討ち事件は、新聞規制が引かれました。米騒動の事件がこれ以上伝播(でんぱ)しないようにとった措置であります。騒動のことは、新聞記事として掲載されることが禁止されたのであります。
また、米騒動の影響として、子供たちの間では『打ち壊し(米騒動ごっこ)』と呼ばれる遊びが流行したようです。

 一方、大きな被害を受けたスイチさんは、損害を5年で穴埋めする計画を建て、実際には3年で目標を達成してしまいました。戦前のスイチさんは、真砂町ではもちろん、清水でもひときわ大きな存在だったのであります。

清水歴史散策シリーズ

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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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