第3話 武田信玄・穴山梅雪そして江尻城
今日は、知っておきたい清水の歴史として、江尻城についての話をしてみたいと存じます。

駿府というと、今川義元と徳川家康が有名です。今川の後はすぐに徳川が駿河を治めたと思っている人も多いようです。
実際には、武田信玄が今川を追い出し、10年以上に渡って駿府を治めておりました。
実際には、武田信玄が今川を追い出し、10年以上に渡って駿府を治めておりました。
この駿府を治めている時の中心が江尻城だったのであります。
江尻城は、今は跡形もありませんが、本丸の跡地にできた江尻小学校には石碑が残っております。それと、鋳物師町、鍛冶町、天神町、小芝町、伝馬町、魚町などの町名が残っております。また、江尻小学校の近くを散歩すると昔のことが記載された看板に出会うことができます。
本日は、江尻城の築城から廃城までの歴史を、順を追って説明したいと思います。
1.信玄の駿府占領
桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が織田信長に討たれた後、今川義元の子供の今川氏真(うじざね)が家督を継承しました。
江尻城は、今は跡形もありませんが、本丸の跡地にできた江尻小学校には石碑が残っております。それと、鋳物師町、鍛冶町、天神町、小芝町、伝馬町、魚町などの町名が残っております。また、江尻小学校の近くを散歩すると昔のことが記載された看板に出会うことができます。
本日は、江尻城の築城から廃城までの歴史を、順を追って説明したいと思います。
1.信玄の駿府占領
桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が織田信長に討たれた後、今川義元の子供の今川氏真(うじざね)が家督を継承しました。

家康は、戦いの後、故郷の岡崎に入り三河平定を致しました。そこで、家康と信玄は、大井川を境として徳川・武田の両家が今川領を分割するという密約を結んだのです。
そして、いよいよ信玄の駿府攻めです。
そして、いよいよ信玄の駿府攻めです。
甲斐から駿府を攻めるのは、興津川と並行した国道52号線を通るか、さった峠を通らなければいけません。
今の国道1号線は、安政の大地震(1854年)のお陰でできたのです。この当時は海の中です。ついでに書くと、島でもないのに向島と呼ばれていた清水区役所のある場所は、大地震の前は単なる巴川の土砂が堆積した土地で、何の価値もなかったのです。地震のお陰で、土地が隆起して立派な陸地になったのです。蒲原では耕地の増加を歓迎し「地震さん地震さん、また来ておくれ、私の代にもう一度、孫子の代に二度三度」とまで唄(うた)われました。しかし、地震の恩恵は蒲原よりも清水の方が大きかったのではないでしょうか。少し、話が脱線しました。
今の国道1号線は、安政の大地震(1854年)のお陰でできたのです。この当時は海の中です。ついでに書くと、島でもないのに向島と呼ばれていた清水区役所のある場所は、大地震の前は単なる巴川の土砂が堆積した土地で、何の価値もなかったのです。地震のお陰で、土地が隆起して立派な陸地になったのです。蒲原では耕地の増加を歓迎し「地震さん地震さん、また来ておくれ、私の代にもう一度、孫子の代に二度三度」とまで唄(うた)われました。しかし、地震の恩恵は蒲原よりも清水の方が大きかったのではないでしょうか。少し、話が脱線しました。

永禄11年(1568年)12月、信玄は甲府を出発し、富士宮を通りさった峠から駿府に攻め入ったのです。戦う前から今川の家来を買収しておりましたので、簡単に攻めることができたようです。ほうほうの体で、今川氏真は、掛川城に逃げ込みました。
駿府を占領した武田信玄は、駿府の今川の館を燃やしてしまいました。同時に最初の江尻城が完成します。
2.信玄の駿府撤退
一方の家康は、掛川城に落ち延びた今川氏真の掛川城を包囲しております。
ところで、今川氏真の奥さんは北条家から嫁いでおります。激怒した北条は、翌年の永禄12年(1569年)1月に、小田原から駿河に向けて出兵しました。この結果、さった峠で両軍のにらみ合いが始まりました。この後、旧今川の家臣の抵抗や兵量不足などが発生し、不利と見た武田軍は、4月にはさっさと甲斐に兵を撤退させてしまったのです。
3.家康の和睦
一方の家康は、北条氏の仲介により、永禄12年(1569年)5月、今川氏真と和睦してしまったのです。掛川城は家康に明け渡され、今川氏真は北条のもとに逃げ込みました。その後、今川氏真は北条氏の子供に今川家を譲り隠居されました。
4.信玄の駿府再占領
ここで、信玄がおとなしくしているわけがありません。あちらこちらで北条との戦いを繰り返し、ついに永禄12年(1569年)11月、武田信玄は駿河に侵攻を開始します。12月には再び駿府を占領し、駿河を完全に支配下に置いてしまいました。
2.信玄の駿府撤退
一方の家康は、掛川城に落ち延びた今川氏真の掛川城を包囲しております。
ところで、今川氏真の奥さんは北条家から嫁いでおります。激怒した北条は、翌年の永禄12年(1569年)1月に、小田原から駿河に向けて出兵しました。この結果、さった峠で両軍のにらみ合いが始まりました。この後、旧今川の家臣の抵抗や兵量不足などが発生し、不利と見た武田軍は、4月にはさっさと甲斐に兵を撤退させてしまったのです。
3.家康の和睦
一方の家康は、北条氏の仲介により、永禄12年(1569年)5月、今川氏真と和睦してしまったのです。掛川城は家康に明け渡され、今川氏真は北条のもとに逃げ込みました。その後、今川氏真は北条氏の子供に今川家を譲り隠居されました。
4.信玄の駿府再占領
ここで、信玄がおとなしくしているわけがありません。あちらこちらで北条との戦いを繰り返し、ついに永禄12年(1569年)11月、武田信玄は駿河に侵攻を開始します。12月には再び駿府を占領し、駿河を完全に支配下に置いてしまいました。
永禄11年(1568年)に今川の館が焼失し、駿府城の築城が天正13年(1585年)ですから、その間の17年間は、駿府の中心は江尻城だったのです。
その後、信玄は、駿河西部に進出して、駿河を完全に支配下に置いたのでした。
その後、信玄は、駿河西部に進出して、駿河を完全に支配下に置いたのでした。

5.三方原の戦いと信玄の死亡
元亀3年12月22日(1573年)に、武田信玄と徳川家康・織田信長の間で、三方ヶ原(浜松市北区)の戦いが起き、信玄が勝利します。(写真はしょげた家康)
しかし、信玄は翌年の4月12日突然死去いたします。享年53歳でした。
しかし、信玄は翌年の4月12日突然死去いたします。享年53歳でした。
6.長篠の戦い
信玄が死去した後、武田勝頼が後を継ぎます。
信玄が死去した後、武田勝頼が後を継ぎます。

天正3年(1575年)、長篠の戦いが起き、武田軍は織田・徳川の連合軍に壊滅的な打撃を受けます。長篠合戦は、信長の鉄砲隊対武田の騎馬軍団の戦いだとか、信長の新戦法鉄砲の連射(いわゆる「三段撃ち」)対騎馬攻撃の旧戦法の戦いだったとされています。
しかし、最近の調査では、信長の鉄砲の玉は東南アジアからの輸入した鉛玉が多く、武田軍の鉄砲の玉は銅銭をつぶしたものだったそうです。堺を掌握した信長は、大量の弾薬を手に入れることができたのに対し、武田軍は弾薬の入手そのものができなかったのです。
戦いは、物量の差で戦う前から決まっていたようです。
7. 信長の甲斐侵攻
天正10年(1582年)、信長の甲斐侵攻が始まります。
ところで、信玄は生前に「勝頼の娘と穴山梅雪の長男を結婚させろ」と遺言しました。その約束をやぶって勝頼はいとこの武田信豊と娘を結婚させてしまいました。わがままな性格の勝頼と梅雪は、最初から仲が悪かったのです。梅雪は長篠の戦では、積極的には戦いに加わらず、勝頼との仲は最悪の状態だったようです。
戦いは、物量の差で戦う前から決まっていたようです。
7. 信長の甲斐侵攻
天正10年(1582年)、信長の甲斐侵攻が始まります。
ところで、信玄は生前に「勝頼の娘と穴山梅雪の長男を結婚させろ」と遺言しました。その約束をやぶって勝頼はいとこの武田信豊と娘を結婚させてしまいました。わがままな性格の勝頼と梅雪は、最初から仲が悪かったのです。梅雪は長篠の戦では、積極的には戦いに加わらず、勝頼との仲は最悪の状態だったようです。

梅雪は長篠の戦いの後、家康と会い、家康の説得の結果、武田勝頼を見限る決断をします。梅雪の手引きもあって、あっという間に、勝頼は織田氏によって滅ぼされました。
梅雪は、裏切りの功績により甲斐武田の後継ぎとしての地位を認められます。
梅雪は、裏切りの功績により甲斐武田の後継ぎとしての地位を認められます。

8.本能寺の変と穴山梅雪の死
天正10年(1582年)6月2日、羽柴秀吉を救援しようとして出発した明智光秀は、信長を襲撃します。いわゆる『本能寺の変』であります。
家康と梅雪は、安土城で信長に謁見した後、堺の見物をしておりました。
家康と梅雪は、安土城で信長に謁見した後、堺の見物をしておりました。
この時、本能寺の変が起きたのです。家康一行は追手から逃れるためにあえて危険な山道がつづく伊賀を越えて伊勢湾を目指すことにしました。ところが、梅雪は、ここで家康と別行動を選択し、落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されてしまう。これが、通説です。
しかし、松平家忠(家康家臣)の書いた『家忠日記』には、梅雪は家康と岡崎まで一緒に帰ってきて、そこで家康に殺されたとあります。
しかし、松平家忠(家康家臣)の書いた『家忠日記』には、梅雪は家康と岡崎まで一緒に帰ってきて、そこで家康に殺されたとあります。

9.駿府城の築城
家康は、天正13年(1585年)から居城として駿府城の築城をはじめ、天正17年(1589年)に現在の二ノ丸以内の部分を完成させました。駿府城が築城されるまでは、江尻城が駿府の中心だったのです。
10.江尻城の廃城
梅雪の死後、嫡男である穴山勝千代(武田信治)が城主として認められますが、天正15年(1587年)に急死してしまいます。享年16歳、死亡原因は不明です。このため穴山家の血統は断絶してしまいました。ただ、梅雪が継承した武田の名は、家康の息子が武田信吉という名前で継承しました。江尻城は徳川によって引き継がれますが、慶長6年(1601年)に廃城になってしまいます。
以上が、江尻城の歴史です。江尻小学校の周辺を散歩した時、江尻城の歴史を思い出しながら、江尻城の痕跡を探してください。
梅雪の死後、嫡男である穴山勝千代(武田信治)が城主として認められますが、天正15年(1587年)に急死してしまいます。享年16歳、死亡原因は不明です。このため穴山家の血統は断絶してしまいました。ただ、梅雪が継承した武田の名は、家康の息子が武田信吉という名前で継承しました。江尻城は徳川によって引き継がれますが、慶長6年(1601年)に廃城になってしまいます。
以上が、江尻城の歴史です。江尻小学校の周辺を散歩した時、江尻城の歴史を思い出しながら、江尻城の痕跡を探してください。










