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知っておきたい清水の歴史 第4話

第4話 徳川家康の長男・信康公と江浄寺

 旧東海道の江尻宿に、信康公の寺院である江浄寺があります。信康公は、父、徳川家康の命令で切腹させられました。この事件は、信康事件として有名です。今日は、知っておきたい清水の歴史として、家康の長男である信康の話をしてみたいと存じます。

1.信康の誕生
信康は、永禄2年(1559年)に駿府で生まれました。父は家康、母は瀬名です。家康は岡崎城主の子供だった時、今川家の人質として駿河に来たのです。しかしその後、岡崎城主が死亡したため、囚われの身でありながら岡崎城主となったのです。

家康と瀬名
その結果、今川家の家臣のような扱いを受けていたのです。瀬名は今川家の重臣の娘で、結婚は当然のごとく政略結婚であります。信康は、家康の16歳の時の子で、翌年には妹の亀姫が誕生しております。
2.人質交換
永禄3年(1560年)、家康は桶狭間の戦いに参戦し、今川義元の死後、そのまま故郷の岡崎に住み着いてしまいました。そして、織田信長に従うようになり、今川家と対立するようになります。この結果、瀬名と信康・亀姫は、裏切り者の家族として、今川家では囚われの身となってしまったのです。
家康は、永禄5年(1562年)人質交換という手段で、瀬名・信康・亀姫の3人を救出します。この人質交換はどう考えても今川方に不利な交換でした。『三河物語』には「この交渉に応じた氏真を馬鹿な大将だ」と書かれています。
しかし、歴史家の中には、『この人質交換の裏には、家康が信長と縁を切り、今川家の傘下に戻るといったような裏取引があり、この裏取引を家康が反故にしたため、瀬名の父親が切腹させられた。その結果、家康と瀬名との仲が悪くなった。』と主張する者もおります。山岡荘八の小説『徳川家康』では、「夫婦仲の悪化に伴い、ついには我が身と信康の安全を条件に武田家と密約を結ぶに至る。」とされております。
一方、NHKの『どうする家康』では、家康と瀬名の仲は信じられないぐらいの仲良しです。家康と瀬名の仲は、本当はどうだったかわかりませんが、少なくとも瀬名と信康・亀姫を助けた家康が恨まれていたことはないと思います。
 さて、人質交換で助けられた瀬名と信康・亀(かめ)姫は、家康の住む岡崎に住みますが、瀬名と家康の母との嫁・姑の関係は良くなかったようで、瀬名は岡崎城には入れてもらえず、城外の寺院に居住しておりました。
3.信康と徳姫の結婚
同じ年の永禄5年(1562年)、家康は信長との間で同盟を結びます(清州同盟)。永禄10年(1567年)には清州同盟の強化のため、信康は信長の娘である徳姫と結婚させられました。共に8歳です。

永禄11年(1568年)には、家康は武田信玄と同盟を結び、共に駿河の今川を攻めます。今川氏真はやむをえず掛川城に逃げ込みました。一方の家康は、遠州に進出し、掛川城を包囲しますが、落城させることはできませんでした。
永禄12年(1569年)掛川城を落とすことができなかった家康は、信玄との同盟を反故にし、北条との話し合いで氏真の助命と引き換えに掛川城を手に入れます。

4.信康、岡崎城の城主となる
元亀元年(1570年)信長の意向により、家康は浜松城に移り、岡崎城は信康に譲られます。この時、家康は27歳、信康はわずか11歳であります。瀬名は家康について浜松に行かず、信康と共に岡崎に残ります。信康があまりにも若くて心配だったから瀬名が残ったとう説や家康と瀬名との仲が悪かったから別居したとの説などがありますが、中には、女好きの家康公が単に羽を伸ばしたかったからという説もあります。

5.信長と家康の関係
元亀元年(1570年)には、姉川の戦いもありました。NHKの『どうする家康』では、家康は浅井長政に味方して、信長を敵に回そうとも考えたが、結局、信長に味方し勝利したことになっております。
一般的に、家康と信長の同盟は強固であったと考えている人が多いのですが、本当は、家康と信長の同盟は必ずしも万全なものではなかったかもしれません。NHKの『どうする家康』では、『家康は信長に脅かされて服従していただけで、本当は恨んでいた』というような設定です。

6.信玄の死亡から大賀弥四郎の謀反・・・
元亀3年(1572年)、『三方ヶ原の戦い』で、家康は武田信玄に大敗します。その後、信玄が病死し、勝頼が後を継ぎます。
大賀弥四郎
天正3年(1575年)、大賀弥四郎事件が起きます。信康の家来・大賀弥四郎が、勝頼に内通して武田軍を岡崎へ引き入れようとする謀反を企てますが、失敗に終わった事件です。この事件の結果、関係者はもちろん罪もない妻子までもが処刑されております。
7.長篠の戦い
天正3年(1575年)、武田の家来で長篠の城主奥平信昌(のぶまさ)は、家康の子亀姫と結婚する条件で、武田から徳川の家臣に鞍替えいたします。この時、人質として武田家に送っていた妻とは離縁いたします。激怒した武田勝頼は信昌の元妻と信昌の親族を処刑し、長篠城に押し寄せます。この結果、織田・徳川連合軍との間で『長篠の戦い』が始まるのです。この戦いは、信長の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦いとして有名です。物量にまさる信長は勝頼に圧勝いたします。
なお、亀姫と結婚した信昌は女房の七光りのお陰でしょうか、その後、美濃国加納10万石の城主にまで出世いたしました。

8.信康に子(信長の孫)が生まれるが、-----信康は切腹?
天正4年(1576年)信康と徳姫に登久姫が生まれます。天正5年(1577年)には、熊姫が生まれました。しかし、いつまでも嫡男が生まれないので、姑の瀬名は信康に元武田家の家臣の娘を側室に勧めたのです。この結果、信康は側室を寵愛、夫婦仲に亀裂が入ってしまい、もともと折り合いが悪かった瀬名と徳姫は、険悪なムードになってしまったのです。
信康の切腹
天正7年(1579年)遂に信康事件が起こります。
徳姫は父の信長に、姑・瀬名と信康の罪状を訴える12か条の訴状を書き送ります。この訴状には、瀬名と信康が、武田と通じていることをはじめ、瀬名が浮気しているとか、信康は乱暴者で面白半分に人を殺すとか、徳姫が女しか生まないので怒っているとか、二人の悪口が書かれていたのです。
この訴状を読んだ信長は、徳川の家老の酒井忠次に問いただしたところ、信康をかばうこともなく、すべて事実であると説明したのです。信長は家康に『後始末をつけるよう』に要求しました。 
この結果、家康は妻の瀬名の殺害と息子の信康の切腹を決めてしまったのです。瀬名は逮捕、尋問されることもなく、殺害されてしまい、信康もろくに尋問もされず、他には誰も逮捕、尋問されることもなく、二俣城で切腹させられたのです。享年21歳(満20歳)です。

9.徳姫と信康の子のその後
事件の後、徳姫は信長の元に戻りますが、二人の娘は家康の元に残りました。
徳姫は再婚することもなくその後の歴史に翻弄されますが、家康の天下となった時には所領も与えられております。さらに、実の娘二人だけでなく、その子供や孫までもと交流があったようです。
実の娘の登久姫は家康の家臣で後に松本城主となった小笠原秀政に嫁ぎ、熊姫は家康の家臣で後に姫路の城主となった本多忠政に嫁いでおります。もしかしたら、二人とも女房の七光りのお陰で出世したのかもしれません。

10.事件は今も謎のまま・・・
この事件、実に不思議な事件です。①瀬名と信康の二人が殺されただけで、他に誰も罰せられておりません。それどころか、関係者はみな出世しているのです。また、②家臣の協力なしで、瀬名と信康が単独で、武田と裏で外交ができるとは到底思えません。③そもそも、跡継ぎ息子の信康が徳姫と不仲とか乱暴者とかの理由で死刑になるのでしょうか。さらに④家老の酒井忠次が、信康を弁護しなかったことも不思議です。酒井忠次は、その後も家康の重臣として活躍しているのです。本当に、信長の命令で、家康は妻の瀬名の殺害と息子の信康の切腹を決めてしまったのでしょうか?

いまだ、この事件は骨子すら不明で、①父子不仲説②武田謀略説③派閥抗争説④信長首謀説⑤家康黒幕説などが生まれました。また、前述の大賀弥四郎との関係も不明です。
私は、⑤の家康黒幕説が正しいと思っております。だからこそ、家老の酒井忠次はあえて信康を弁護しなかったのです。ことが、家康や徳川家全体に及ぶのを、防ぐ必要があったのです。さらに、瀬名を、突然、部下に命じて殺したのも、家康が瀬名に説明すらできなかったからなのです。

11.瀬名、信康の墓
瀬名の墓は、静岡県浜松市 「西来院(せいらいいん)」にあります。西来院には葵の御門もあり、しっかりと祀られております。とても謀反人のお墓とは思えません。
次に、信康の墓は信康が切腹した翌年、家康によって(信康山長安院)清瀧寺というお寺が建立されました。寺域には胴体が葬られた信康廟が現存しております。また、信康の首は信長の元に送られた後、若宮八幡宮に葬られました。若宮八幡宮では信康は祭神となっております。
さらに、その後、信康と関係が深かった者により複数の寺院・供養塔などが建立されております。西念寺(新宿区)の供養塔、隆岩寺(古河市)、万松院(小田原市)、江浄寺の供養塔(静岡市清水区)、高野山金剛峯寺(高野町)の墓所寄進などであります。

12.江浄寺
この内、江浄寺について説明いたします。
江浄寺は、永正元年(1509年)に開山いたしました。当時は秋吉町付近に創建されました。次に、供養塔は榊原清政(さかきばらきよまさ)が平岩親吉と共に、造営したものです。
江浄寺
榊原清政は、信康の傅役(もりやく=教育係)でしたが、信康自刃後職を辞して隠居しておりました。しかしながら、家康の信任が厚く、久能城(のちの久能山東照宮)の城代として慶長12年(1607年)に久能城へ入城し、駿河有度郡(旧清水市の大半)に3,000石を領有しておりました。
その時に、家康から信康の遺髪を譲り受け江浄寺へ納め、信康の供養塔を建立したと思われます。
平岩親吉は、家康の人質時代からの家臣です。信康の傅役(もりやく=教育係)でもあり、信康の切腹の代わりに自身の首を差し出すよう提案したこともあります。家康の信頼厚く、尾張藩の家老・犬山藩(12万3千石)の藩主まで出世しました。信康公のために、高野山金剛峯寺(高野町)に墓所寄進をした人物でもあります。

私は、信康は家康の身代わりとして死んだのではないかと、勝手に解釈しております。江浄寺は、清水駅前銀座商店のすぐそばにあります。是非一度、江浄寺の信康の供養塔を眺めてみることをお勧めいたします。
江浄寺の信康公のお墓

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代表 森田行泰
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■東海税理士会所属
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