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知っておきたい清水の歴史 第6話

第6話 鉄舟寺・牛若丸の『薄墨の笛』・浄瑠璃姫の物語

文化庁が指定した国民の宝、国宝は、全国で1,173件ありますが、静岡県には13件あます。その内、静岡市内の物は5件です。刀剣が3本で、1本は久能山東照宮所有ですが、残り2本は個人の所有(いずれも駿河区)であります。次に、久能山東照宮の建物が国宝となっております。

1.清水にある国宝・・・・・
そして、残りの1件が書物です。この書物1件だけが旧清水市にある国宝であります。この国宝は、今回お話をする清水の鉄舟寺にあるのです。ただし、鉄舟寺では盗難を恐れて他の場所*に保管されております。
国宝の名前は『紙本墨書法華経』一般には『久能寺経』とよばれるこの書物、当初は30巻あったのですが、鉄舟寺には19巻だけが現存しております。
この『久能寺経』は『平家納経』や『慈光寺経』と共に日本三大装飾経と呼ばれる貴重なものです。
*私は、清水に移設して観光の目玉にするべきと考えます。
ところが、鉄舟寺にはもっと貴重な財産があるのです。皆さんは、牛若丸が京都の五条大橋で弁慶と戦った話はご存じですね。あの時吹いていた横笛が『薄墨の笛』という笛で、鉄舟寺に保存されているのです。今回は、この『薄墨の笛』を中心に話をさせて頂きます。
2.鉄舟寺(補陀落山久能寺)の歴史・・・・・
その前に、鉄舟寺の歴史をお話しいたします。鉄舟寺は、元々は『補陀落山(ふだらくさん)久能寺』と呼ばれ、久能山の山頂にあったのです。戦国時代に武田信玄が駿河に侵攻し、江尻城を築城した後に久能山の山頂に『久能城』を築づくために、『久能寺』は現在の『鉄舟寺』のある場所に移されたのです。なお、『久能山東照宮』は、徳川家康が死んだ後に造られたのです。
さて、この久能寺は今から1300年以上前の推古天皇の時代(592~628)に、久能さんという国主が造ったのですが、推古天皇の時代というと法隆寺(607年)ができた時代です。 最盛期には、『駿河の比叡山』と呼ばれ、坊中(建物の数)360、衆徒(僧侶)1500人がいたと書かれております。ところが、江戸時代後半から衰退し、明治になると『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』のためか、住職がいなくなってしまったのです。そして、ついに建物は解体され、清水区高橋にある『高源寺の本堂』になったのです。明治5年(1872年)のことです。
この久能寺をなんとか再建しようと、立ち上がったのが、山岡鉄舟です。鉄舟は、勝海舟の手紙を持って西郷隆盛と駿府で会って、『江戸城無血開城』の会談を行ったことで有名です。久能寺が再建されたのは、鉄舟が死んだ後の明治の終り頃の明治43年(1910年)です。再建された時に『補陀落山(ふだらくさん)鉄舟禅寺』と名称が変わったのです。

3.牛若丸と『薄墨の笛』・・・・・
次に、牛若丸と『薄墨の笛』について説明いたします。牛若丸の父は源義朝(源頼朝の父でもあります)、母は常盤御前で、平治元年(1159年)に生まれますが、その年に父は平治の乱に敗れて死んでしまいました。このため、牛若丸は母常盤御前の腕に抱かれて、兄の今若・乙若と共に逃亡生活となります。ところが、常盤御前の母親が捕らわれたため、常盤御前は助命嘆願のため自首してしまったのです。さらに、母親の助命嘆願と引き換えに、常盤御前は平清盛の愛人となってしまいます。清盛は常盤御前が懐妊*すると、常盤御前を一条長成(ながしげ)に押し付けます。兄の今若と乙若は僧にさせられ、牛若丸は一条家で育てられます。
*平家物語には、清盛と常盤御前の子は女の子で、廊御方(ろうのおんかた)と言われたそうです。
牛若丸は、7歳の時に京の鞍馬寺に預けられ、この時、母の常盤御前から「淋しくなったら、父上の形見のこの笛を吹きなさい。」と言って渡されたのが、この『薄墨の笛』だったのです。平家には『青葉の笛*』が、源氏には『薄墨の笛』があったのです。
*一の谷で戦死した平敦盛(たいらのあつもり)の持っていた笛(神戸の須磨寺所有)

さて、牛若丸は16歳になった時に元服して、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼って平泉に行きますが、今回の浄瑠璃姫の物語は、義経が鞍馬寺を出てから平泉に到着するまでの旅行中の話であります。それでは、清水に伝わる浄瑠璃姫の物語*について記載してみます。
*浄瑠璃姫の話は、清水だけでなく岡崎で有名ですが、物語の内容に食い違いがあります。

4. 清水に伝わる浄瑠璃姫の物語・・・・・
京・鞍馬寺で牛若丸を預かったのは、牛若丸の父・源義朝に仕えたことのある鞍馬寺の覚日(かくじつ)和尚であります。覚日和尚は、鞍馬の天狗と称されるほどの武芸の達人でした。幼少の牛若丸を一目みた覚日和尚は、その能力を見抜き、牛若丸に僧侶の修行よりも鞍馬寺の僧兵に交じって武芸の鍛錬をさせたのです。さらに、牛若丸に兵法の講義もしたのです。牛若丸は、覚日和尚が驚くほどの武芸の達人となり、兵法もこれ以上教えることはないぐらいに覚えました。
牛若丸が15歳になった時、覚日和尚は牛若丸に金売吉次(かねうりきんじ)という商人を引き合わせます。この当時、東北地方は砂金の産地で、金売吉次はこの東北地方で採れた砂金を都に運び、都の絹織物を東北地方に運んで、大儲けをしていたのです。京の都では、金売(かねうり)長者と呼ばれ、吉次も自ら金売吉次(かねうりきんじ)と称していたのです。金売吉次は牛若丸に、源氏再興のため平家に対抗できる奥州藤原氏を頼ることを勧めたのであります。
平泉の中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)で有名な奥州藤原氏は、初代の藤原清衡、二代目の藤原基衡と続き、三代目の藤原秀衡の時代には北方の王者と言われ、文字通り東北地方一帯を支配しておりました。
牛若丸は、この話を聞いて、和尚に鞍馬寺を出ることの許しを請います。和尚は、牛若丸に僧侶になるよりも源氏の大将として活躍するよう励ましました。ただし、牛若丸は僧侶になることが条件で平家から助命されたのです。寺から出たことが分かると命はありません。和尚は、誰にも気づかれないように寺から出るように注意しました。

牛若丸が16歳になった時に、牛若丸は覚日和尚に言われた通りに、そっと鞍馬寺を抜けて金売吉次の元に向かったのです。

5.五条大橋での弁慶との出会い・・・・・
金売吉次の住まいは、京の町中にあります。牛若丸が、「薄墨の笛」を吹きながら五条大橋*にさしかかった時に、現れたのが武蔵坊弁慶であります。弁慶は、僧兵が良く使う薙刀を持って、いきなり牛若丸に切りつけたのです。この薙刀をかわした牛若丸は、鞍馬の天狗・覚日和尚に教わった『天狗飛び切りの術』で、高く跳びあがり、欄干の上に飛び移ったとされております。いずれにせよ、この戦いは牛若丸の圧勝で、弁慶はこの時から牛若丸の家来になったとされております。
*五条大橋の西詰には可愛らしい牛若丸と弁慶が立ち回りする像が見られます。しかし、五条大橋は豊臣秀吉が架けたもので、当時の五条大橋は、現在の松原橋がある場所に存在していたのです。
6.京を離れて奥州へ・・・・・
さて、牛若丸と弁慶は、金売吉次を訪ねました。平家の探索を恐れた金売吉次と牛若丸は、金売吉次の配下の者数名と弁慶と共に、直ぐに旅立ちに支度をして、夜が明ける前に奥州を目指して出発したのです。
一行が、最初に宿泊したのは滋賀県の竜王町の鏡の里であります。朝起きると、すぐに牛若丸は、元服前の姿だと人目につきやすいので、元服をしたのです。元服するためには、前髪(まえがみ)を切り落とし、髷(まげ)を結って侍姿になります。
この時、鏡の代わりに自身の姿を池の水に映したと言われるのが、鏡の里の『元服池』です。次に、牛若丸は鏡神社に参拝し、源氏再興を祈願しますが、この時、急ぎ作らせた鳥帽子を掛けたと言われるのが『鳥帽子掛け松』であります。
元服の最後の儀式が、改名です。牛若丸は、父・義朝の『義』と初代清和源氏の源経基(みなもとのつねもと)の『経』をとって、『義経』と改名いたしました。

7. 矢作(やはぎ)の里をめざして・・・・・
元服した牛若丸と金売吉次の一行は、次に金売吉次の友人・兼高長者の住む岡崎の矢作(やはぎ)の里をめざします。

兼高長者には、浄瑠璃姫という近隣諸国にも評判となる牛若丸と同年齢ぐらいの美人がおりました。実は、兼高長者は、岡崎から知立に及ぶ広大な土地を持つ比類なき長者だったのですが、子供に恵まれませんでした。そこで、鳳来寺の薬師如来に願をかけ、ようやく生まれたのが、浄瑠璃姫なのです。薬師如来に願をかけて生まれたので、浄瑠璃姫と名付けられたのです。

ここで、薬師如来について説明します。まず、現世の仏様が釈迦如来であり、来世の仏様が極楽浄土に居る阿弥陀如来であります。これに対して、薬師如来は我々が生まれる前の世界である浄瑠璃浄土に居ると信じられております。薬師如来は過去の世界から我々を現世に送り出し、現世の苦しみを救済してくれるのです。浄瑠璃とはもともと仏教用語で、不純なものは全くない澄み切ったものという意味なのです。 

金売吉次と兼高長者は、お互いの無事を喜びあい、世間話をいたしました。兼高長者が、「近頃の平家は、平家にあらずんば人にあらずといった態度で、腹が立つことが多くて困る。」というと、金売吉次は「おごれる平家は久しからず、もうじき源氏の世がやってくる。今日は、その源氏の御曹司を連れて来た。」と言って、義経を紹介いたします。兼高長者は、大いに喜び『義経様、道中難儀でござった、ごゆるりと,お休み下され』と、義経一行を手厚くもてなすのでした。

8.義経と浄瑠璃姫・・・・・
その夜のことです。義経は、眠れぬまま『薄墨の笛』を吹きます。その調べを聞いた浄瑠璃姫は、当家に伝わる名琴『松風』を引き寄せ、笛の音に合わせて弾きはじめました。笛の音と琴の響きは、あたりの夜気をなまめかしく盛り上げていくのでした。
浄瑠璃姫は、源氏の若君をわが家に迎えたときから、生まれて初めての熱いときめきが、芽生えていたのです。義経の目と目を見交わすたびに、姫の胸は高鳴るばかりで、義経もまた姫と同じ想いだったのです。高まる義経の想いはやる方なく、とうとう姫の部屋に入り込み、一夜の契りを交わしてしまったのです。

しかし、義経は源氏再興のため平泉に行かなければなりません。『源氏再興の折には必ず迎えに来る。必ず迎えに来るという証に、私の一番大事なこの父の形見のこの『薄墨の笛』を預けておきます。』と言って、平泉を目指して下って行くのでありました。浄瑠璃姫は、義経の言葉を信じて、泣く泣く矢作の里に残ったのであります。

9.義経、蒲原に到着・・・・・
義経と金売吉次の一行が、蒲原の宿に近づいた頃から、義経が風邪を引いたような症状が出てまいりました。体の具合は、急激に悪くなり、義経の顔面は蒼白になります。
もしかしたらと思った義経は、近くにあった小さな湧き水の池から水を汲んで墨をすり、浄瑠璃姫への手紙を書いたのです。
今でも蒲原に義経硯水の碑があります。
手紙には、「心配していた大井川を渡り、平家が守る清見ヶ関(現在の清見寺)も通過でき、やれやれと思った気の緩みか、病になってしまった。なんとか病に打ち勝って平泉に行くつもりだが、万が一私が亡くなったならば、私が預けた『薄墨の笛』を駿河の比叡山と呼ばれる久能寺に預けてくれ。」という内容が書いてあったのです。
義経は、弁慶によって金売吉次の知り合いの蒲原五郎の館に運ばれ、そのまま病床に伏してしまいました。

10.浄瑠璃姫と侍女・冷泉の旅立ち・・・・・
義経の手紙は、弁慶が矢作(やはぎ)の浄瑠璃姫の元へ届けました。この手紙を見た浄瑠璃姫は、驚いてすぐに旅の支度に取り掛かりました。弁慶は、浄瑠璃姫が蒲原の義経の元にやってくるという情報持って、先に蒲原へ向かいました。それを追うように、侍女の冷泉(れいぜん)と二人で、慣れぬ旅姿に身をやつし矢作の家を後にしたのです。浄瑠璃姫にとっては初めての旅です。矢作(やはぎ)の家と蒲原五郎の館は、50里(200km)以上あり、男の足でも5日はかかります。浄瑠璃姫達は9日もかかって歩き続け、か弱き足からは血を流し、二人はようやく蒲原五郎の館に着いたのです。

11.義経の回復と旅立ち・・・・・
床に伏していた義経は,もはや屍同然でした。浄瑠璃姫は矢作の家から持ってきた薬を義経に飲ませ、不眠不休の介護です。
しかし、義経の病状は回復せず、浄瑠璃姫は義経の胸に顔をあてがい泣きこがれたのです。ところが、浄瑠璃姫の落とす涙が義経の唇を濡らすと、突然、義経の顔に生気が蘇ってきたのです。
さすがは、薬師如来の申し子といわれる浄瑠璃姫の涙は、どんな薬よりも効果があったのです。義経は、うっすらと目を開け微笑んでおります。
意識の戻った義経を見て安心した浄瑠璃姫は、久しぶりに床に就いたのでした。ぐっすり眠って翌朝目覚めると、義経がおりません。驚いた浄瑠璃姫が蒲原五郎に、義経の居所を訪ねると、朝早く目覚めた義経は、浄瑠璃姫あてに手紙を書いて、弁慶とともに朝早く旅立ってしまったとのことです。手紙には、「源氏再興のため奥州の平泉に急ぎ参らねばならない。」とだけ書かれてありました。

12.浄瑠璃姫の命・・・・・
義経が去った後、今度は浄瑠璃姫が病の床についてしまいました。長旅の疲れや義経との突然の別れが原因でしょうか、それとも義経の病が移ったのでしょうか。その後の10日あまりの侍女冷泉の必死の看護も空しく、16歳の若き命は朝露のごとく消えてしまったのです。里人たちもみな涙を流し、塚を築いて姫の供養をし、塚には目印となる松の苗木が、6本植えられたのでした。いつしか『六本松』と名付けられ、里の人々にも親しまれ、都へ上る旅人のよき道しるべになったのです。
明治31年、時の蒲原町長五十嵐重兵衛の手で、浄瑠璃姫の墓の碑が,建立され、『語り継ぎ、言い継ぎつつ今になお、いくりの人の袖を、濡らすらん』と、碑面に彫られた哀愁の歌が、今なお多くの人々に伝えられております。
*浄瑠璃姫の墓・浄瑠璃姫の碑・吹き上げの六本松は蒲原中学の前の新栄六本松公園北側にあります。

13. 侍女・冷泉による『薄墨の笛』の寄進・・・・・
さて、浄瑠璃姫の侍女・冷泉は、浄瑠璃姫の持っていた『薄墨の笛』を、義経殿からの寄進として久能寺に納めます。矢作(やはぎ)の兼高長者の元に戻った冷泉は、浄瑠璃姫の遺髪を差し出し、涙ながらに一部始終を話しました。
浄瑠璃姫の遺髪を握りしめながら、黙って冷泉の話を聞いていた兼高長者は、「あの純真無垢な浄瑠璃姫は最後に最も信頼していた最愛の義経様に裏切られてしまいました。おそらく、義経様も最後には最も信頼しているお方から裏切られるに相違ありません。」と言い放ちました。

その後、義経は平家を倒した後、兄・源頼朝に裏切られ、信頼していた法皇に義経追討の院宣を出され、最後には奥州藤原氏を頼ったが、藤原秀衡の後を継いだ藤原泰衡に裏切られ自害*して果てたのであります。
*義経が静かに自決できるよう敵を防いだ弁慶は、立ったまま戦死(弁慶の立ち往生)しました。
14.浄瑠璃の誕生・・・・・
浄瑠璃姫の物語は、最初は琵琶に合わせて語られ、次に三味線に合わせて語られたそうです。浄瑠璃姫の物語はやがて独特の節回しをつけて語られるようになり、語り方自体を『浄瑠璃』と呼ばれるようになります。
江戸時代になってからは、義太夫節・常磐津節・清元節など全部で8流派が生まれ、それまでの浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれるようになりました。新浄瑠璃になって、今では義太夫節が最も流行しており、義太夫が浄瑠璃の代名詞となりました。浄瑠璃は、上演形態では、『素浄瑠璃(踊り手なしでの上演)』、『人形浄瑠璃*』、『歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)』などがあります。
*人形浄瑠璃では、「文楽座」だけが残り、今では『文楽』が人形浄瑠璃の代名詞となっています。
15. 久能寺(鉄舟寺)にある『薄墨の笛』・・・・・
さて、久能寺(鉄舟寺)にある『薄墨の笛』ですが、昭和39年(1964年)に4代目として入山した香村俊明(こうむらしゅんみょう)住職が所蔵品の整理で、「義経の薄墨(うすずみ)の笛」と添状(そえじょう)を発見し、笛の修復に成功しました。
この笛は、国宝の『久能経』よりも貴重な存在と思いますが、発見が遅かったためか、ようやく 昭和52年に静岡市指定文化財に登録されたのです。
添状は、中村一氏(かずうじ)という豊臣秀吉の腹心の大名で、徳川家康が駿河から江戸に移った後、駿河城主になった人物です。添状には、薄墨の笛を修理したことが記載されており、その証拠に笛の頭に『村』という金文字を残したのです。江戸時代に編集された「駿河新風土記」はもちろん、室町時代の初めの南北朝時代に記された『久能山縁起』や『久能寺縁起』にも判官義経所有の『薄墨という笛』が寄進されたことが記載されております。笛自体の鑑定もした結果、少なくとも数百年以上昔に作られた物と判明しております。
したがって、この笛は牛若丸(義経)が持っていた『薄墨の笛』に間違いないのです。
16. 『薄墨の笛』での演奏会・・・・・
『薄墨の笛』は修復が成功した結果、何回か演奏会も行われました。
写真は、昔の久能寺の建物である高源寺(梶原景時の寺として有名)で、横笛演奏家、赤尾三千子氏が演奏しております。

現在、赤尾三千子氏のCD『薄墨-義経の笛』を、駅前銀座商店街の事務局に預けてあります。聞きたい方は、事務局までお越しください。


清水歴史散策シリーズ

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