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知っておきたい清水の歴史 第7話

第7話 梶原景時の痕跡を求めて~悲劇の英雄・義経×讒言の官僚・景時

清水には、梶原山を始めとして、梶原景時の遺跡があちらこちらにあります。今日は、この『梶原景時』と清水に残る梶山景時の痕跡について話してみたいと思います。

1. 梶原景時の歴史上での登場・・・・・
今では、名前すら知らない人が多い『梶原景時』が歴史に初めて登場するのは、石橋山の戦いです。
治承4年(1180)4月、伊豆に流されていた源頼朝が、平家打倒のため立ち上がって、最初に戦ったのが、この石橋山(神奈川県小田原市)の戦いなのです。結果、頼朝は大敗して山中へ敗走しました。そして、隠れたのが土肥(現在の神奈川県湯河原町)の椙山巌窟(すぎやまがんくつ)です。
土肥の椙山のしとどの窟
軍記物語『源平盛衰記』によると、この洞窟で梶原景時は、頼朝らが潜んでいることを確認したにもかかわらず、「この穴の中には人一人もいない。コウモリだけが沢山いる」と声を張り上げ、味方の兵たちを立ち去さらせたのです。
その結果、頼朝は助かり、船で安房国(千葉県南部)まで落ち延びることができたのです。

*土肥の椙山のしとどの窟(20体以上もの石仏が並ぶ、荘厳な雰囲気を醸す秘境としても有名です。)
その後、東国武士らに押し立てられて再挙したのです。今度は、平家軍を撃破することができ、平家側の景時は頼朝に降伏したのです。そしてこれ以降は、景時は頼朝の家来として活躍するのです。教養もあり、弁舌も立ち、なにより石橋山の戦いで助けてくれた景時は、御家人の統制を行う重要ポストにまで出世しました。
中村獅童演じる景時
2.梶原景時の評価・・・・・
梶原景時は、源頼朝の目となり耳となって、源頼朝を補佐しました。頼朝のスパイとして活躍したのです。景時は、讒言(ざんげん)の景時と言われるくらい何人もの人を陥れたとされております。讒言(ざんげん)とは、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うことです。
景時は、頼朝の信任も厚く、教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出された「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されることもあります。しかし、源義経と対立し、頼朝に義経の讒言をして死に追いやった「大悪人」と、評されることもあります。

国民的人気抜群の悲劇の英雄義経。一方、チクリの梶原景時。実際はどうでしょうか?
まず義経は、『吾妻鏡』によると「義経の独断とわがまま勝手を恨みに思ったのは梶原景時だけではない」と記載されております。
さらに、源頼朝に対して義経を弁護した人物が見当たらないことや、何よりも義経が源頼朝に反旗を翻し挙兵したが、兵が集まらず失敗したことからみて、予想外に人気がなかったのではないか?とも思われます。
一方の梶原景時は、源頼朝のために憎まれ役を買っていただけではないか?実務能力・事務能力に秀で和歌を好んだ文化人の梶原景時は、将軍源頼朝の信任厚く、善人とはいえないまでも優れた官僚だったのではないか?忠臣蔵の悪役、吉良上野介 も実際には、名君だったという話もあります。
ということを考えながら、義経と景時との源氏の内輪喧嘩と義経と景時の結末の話をさせて頂きます。

3.源義経の登場(富士川の戦い)・・・・・
治承4年(1880)9月、平家は頼朝を討つために、軍を送ります。しかし、西国では大飢饉の真っ最中で、兵もろくに集まりませんでした。これに対して、頼朝軍はしだいに膨れ上がり、5万とも20万を越えていたとも言われます。10月、両軍は富士川で対峙したのですが、平家は突如撤退してしまいました。
ちょうどこの頃、源頼朝の異母弟で奥州藤原氏の庇護を受けていた「源義経」が兄・頼朝のもとに馳せ参じて、富士川の戦い後の黄瀬川の陣で涙の対面を果たします。その後、頼朝は鎌倉で、関東の平定に専念します。

この間に台頭してきたのが、頼朝のいとこの木曽(源)義仲です。

4.義経と景時(宇治川の戦い)・・・・・
寿永2年(1183)数万騎を率いて入洛した木曽(源)義仲は、後白河法皇と対立し、統制がとれていない軍は京で乱暴狼藉を繰り返しました。
 後白河法皇は義仲に平氏追討を命じ西国へ出陣させると同時に、鎌倉の源頼朝に上洛を促しました。頼朝は弟の源範頼(のりより)と源義経を近江国にまで進軍させます。範頼の軍は瀬田を攻め、宇治川では木曽義仲の軍と源義経の軍が激突します。そして、圧倒的な兵力差で源義経の軍が勝利するのです。
戦後、義経は戦勝を鎌倉へ報告しますが、「勝ちました」程度の簡単なものだったそうです。
ところが、景時の報告書は、義仲の討ち取られた場所、様子、おもだった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前など詳細に戦果が記載されていたのです。


5. 義経と景時(一の谷戦い)・・・・・
寿永3年(1184)、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出しました。これに呼応して、源範頼軍と源義経軍が京を出発します。
この戦いは、義経の一の谷の断崖絶壁からの「鵯越の逆さ落とし」と呼ばれる奇襲により大勝利となります。
ところで、この一の谷の戦いでは、当初は梶原景時が義経の侍大将、土肥実平が源範頼の侍大将になっていました。
しかし、義経と景時の気が合わず、景時は源範頼の侍大将になったのです。
鎌倉へは、義経の報告書と影時の報告書が送られているはずです。二人の報告書の内容は随分と違ったと思われます。
6.義経と景時(屋島の戦い)・・・・・
一ノ谷の戦いで大敗した平家は、屋島(現在の香川県)を本拠として、瀬戸内海を制圧していました。
元暦元年(1185)、頼朝は義経の起用を決め、讃岐国屋島(香川県)の平氏の本営を衝かせることにしました。
義経は暴風の中をわずか5艘150騎で出港して電撃的に屋島を落としました。梶原景時の本隊140余艘が到着したときには平氏は逃げてしまっていたのです。梶原景時は「六日の菖蒲*」と嘲笑されました。
*(注)六日の菖蒲、十日の菊とは、菖蒲(あやめ又はしょうぶ)は五月五日の端午の節句に用いるもので、五月六日では間に合わない。また、菊は九月九日の重陽の節句に用いるもので、九月十日では間に合わないことから。時機に遅れて役に立たないことのたとえとして用いる。今では、26日のクリスマスケーキとでもいうかもしれません。
7.義経と景時(壇ノ浦の戦い)・・・・・
いよいよ、平家滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦い「壇ノ浦の戦い」であります。壇ノ浦は山口県の下関にあります。古戦場の下には、関門トンネルが通っております。
源義経は水軍を編成して、梶原景時の反対を押し切り、自ら先陣に立って攻め込みます。
『平家物語』によれば、梶原景時は先陣を希望したのですが、聞き入れてもらえず、斬りあいになる寸前だったとあります。
関門海峡は狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の向きも変わるという特徴があります。午前に始まった合戦は、開戦直後は激しい東流れの潮流を利用した平家が優勢に進めておりました。ところが、不利を悟った義経は平家水軍の非戦闘員の水手・梶取を射させる戦法*に出たのです。
*この当時、非戦闘員を攻撃することは、武士としてやってはいけないことだったのです。

この義経による掟破りの戦法に加えて、昼近くになると潮の流れが変わってしまったことのより、攻勢は完全に逆転してしまったのです。平家方に混乱が生じ、平家は壊滅状態となってしまいました。
敗北を悟った平家一門は次々と海へ身を投げていったのです。死を決意した二位の尼(平時子)も、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて入水してしまいました。
後を追った帝の母・建礼門院(平徳子)は入水するが生き残ってしまい、京へ送還されたのです。海へ身を投げた平家一門の最後を見届けた知盛ら主要武将も次々と入水します。
総帥である宗盛も息子と入水しますが、引き上げられ捕虜となってしまいました。こうして、壇ノ浦の戦いは終わったのです。

8.義経と景時(その後の義経『腰越状』)・・・・・
 平家との戦いが終わった義経に、景時がしっぺ返しをする時がやってきました。景時から鎌倉の頼朝宛てに一通の報告書が届いたのです。
『吾妻鏡』によると、「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います。」と記載されているのです。
 
そんなことは露知らず、義経は意気揚々と、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしました。しかし、頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れました。 義経は、鎌倉郊外の腰越(現鎌倉市)の満福寺に留め置かれました。この時、頼朝に対し自分が叛意のないこと記載した書状が有名な腰越状であります。
腰越状で有名な鎌倉市の満福寺の義経・弁慶
義経が頼朝の怒りを買った原因は、①許可なく官位を受けたこと、②梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、③義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことなどであります。
さらに、後白河院と仲良くしたことも、頼朝には容認出来るものではなかったと思われます。
しかし、最大の原因は、梶原景時のチクリではないか?と思われております。

9.その後の義経『謀反』・・・・・
結局、義経は鎌倉へ入る事を許されませんでした。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言ったそうです。これを知った頼朝は、義経の所領をことごとく没収しました。さらに、頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送り義経邸を襲いました。襲撃は失敗しました。ところで、これらの事件にはすべて景時が関わっていたのです。

ここから、義経も後白河法皇に頼朝追討の院宣(いんぜん)を出させるなど対抗します。しかしながら、賛同する勢力は少なく、今度は、頼朝が法皇に義経追討の院宣を出させ、義経追討に向かうことになります。

義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図りました。九州へ船出しようとしたところ、途中暴風のために難破*し、主従散り散り、義経の九州落ちは不可能となったのです。
*ここから歌舞伎の船弁慶が生まれました。
京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴きます。途中、北陸道の安宅の関*を経て奥州へ向かったのです。
*ここから歌舞伎勧進帳が生ました。
10.その後の義経『最後』・・・・・
 奥州藤原家3代目藤原秀衡(ひでひら)は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を大将に立てて鎌倉に対抗しようとしましたが、文治3年(1187)に病のため亡くなってしまいました。
頼朝は秀衡の死を受けて、後を継いだ藤原泰衡(やすひら)に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけました。藤原泰衡(やすひら)は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破ってしまいました。500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲ったのです。
義経の郎党たちは防戦しましたが、ことごとく討たれてしまいました。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果ててしまいました。享年31です。

このように、源義経は亡くなってしまったのですが、一方の梶原景時も運命の時が来たようです。

11.その後の梶原景時『鎌倉追放』・・・・・
さて、頼朝が死んだ翌年、結城朝光という人が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べたそうです。翌々日、御所に勤める女官である阿波局が結城朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言(ざんげん)し、あなたは殺される事になっている」と告げました。驚いた結城朝光は三浦義村に相談したところ、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成されたのです。
将軍頼家は、この連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もしませんでした。景時は謹慎しましたが、その後、鎌倉追放を申し渡されてしまいました。

12.その後の梶原景時『梶原景時の変』・・・・・
梶原景時は、自体が急変したのはすべて北条の仕業であると考え、北条追討のため、一族とともに京都へ上る決意をします。
正治2年(1200)正月、梶原景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立。途中、駿河国清見関にて戦闘になり、その後、一族33人が討ち死にしました。『吾妻鏡』によると、梶原景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとなっております。

13.その後の梶原景時『清水での最後』・・・・・
鎌倉を逃れ、夜間、清見ヶ関を通りかかった時、景時の一族は、この地に住む侍たちと戦いになります。実は、景時の鎌倉追放は北条氏のたくらみで、この時すでに北条氏は景時の一族が京に向かうと予測していたのです。景時征伐の指令は、前から出ていたのです。景時は、一族に逃げるように指示して西に向かいました。

ところで、旧東海道は、3つあります。1つ目が古代の東海道です2つ目が中世の東海道です。そして、最後が江戸時代の東海道です。
まずは、古代の東海道です。古代における「東海道」には2つの意味がありました。その1つはもちろん道としての東海道ですが、もう1つは地域区画としての東海道という意味です。古代の律令時代には、日本は五畿七道(ごきしちどう)という行政区画に分けられていたのです。五畿七道の東海道に含まれる国は、京都から、伊賀、伊勢、志摩、尾張、参河(みかわ)、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、上総、下総、安房、常陸の14カ国であります。これらの国々の国府(国司が政務をとった役所)を通って平安京(京都)にいたる道が、街道としての東海道ということになります。
次に、中世の東海道について説明します。鎌倉幕府開設以来,各地から鎌倉に向かう道を 鎌倉往還といいます。その内の一つ、京都と結ぶ京・鎌倉往還とも言われた道が、中世の東海道なのです。古代の東海道は国家によって維持されましたが、中世の東海道は地方に任されていたので、あまり立派な道路ではなかったようです。
1つ目と2つ目の東海道は北街道あたりだったのですが、3つ目の江戸時代の東海道は家康によって江尻湊(みなと)が近くにあった清水銀座通りが東海道になっております。

景時の西に向かった街道は、鎌倉街道と呼ばれた今の北街道、当時の東海道だったのです。当時から巴川のあばれ具合によって、北街道(鎌倉街道)は変化したようです。景時とその一族は、清水の地侍と戦いながら当時狐ヶ崎*とよばれた静岡市曲金まで行って、梶原山(当時は矢崎山と言った)で最期を迎えたのでした。
 *戦いで倒れた馬を祭った馬頭観音があります。

では、清水にある梶原景時の遺跡について紹介いたします。
14.景時の遺跡『清見寺の血天井』・・・・・
さて、この清見ヶ関の戦いで、人間とか馬の血がべったりと清見ヶ関の柵にくっついたそうです。それをずっと水で洗って、清見寺で保管をしていたそうです。何百年後も経った江戸時代、家康の娘が清見関(きよみがせき)の柵を板にして寄進したのです。
清見寺では、寄進された板を天井にしたのです。そうしたら、不思議なことに、板から血がにじんで出てきたり、馬の蹄(ひずめ)が出てきたりしたのです。そして梶原一族の怨念だろうと、噂(うわさ)され、以来、『清見寺の血天井』という名前がついたのです。
この『清見寺の血天井』は、清見寺の大玄関の天井として、今でも使われております。
この家康の娘・振姫という人は二度結婚しまして、二度とも上手くいきませんでした。さらに振姫は、赤ちゃんを産んだ翌日に死んだそうです。これも、梶原景時の怨霊じゃないかとも言われております。

15.景時の遺跡『景時の眠る高源寺』・・・・・
清水・高橋の北街道沿いに高源寺というお寺があります。このお寺には、景時にまつわる遺跡があります。
まず『不尽乾坤燈外燈龍没』*と刻まれた石碑があります。この石碑は、梶原一族の供養碑なのです。景時一族は現在の梶原山にて自害した後、街道筋でさらし首にされたところに、この供養碑は建てられ、その後、高源寺に移されたのです。

*永遠の尽きない大地と同じように、この龍(景時)も消えずに残っていくだろうとの意味です。
供養碑の右側には、小さなお地蔵様が建っています。こちらは『うなり地蔵』といわれております。景時の家臣を埋葬したところ、夜な夜なうなり声が聞こえて来たので、供養のための地蔵とのことです。
16.景時の遺跡『梶原山にあった梶原堂』・・・・・
景時の子孫が室町時代に、矢崎山(今の梶原山)の山腹に龍泉院というお寺が建てられました。その一角に建てたのが、この梶原堂です。その後、江戸時代に龍泉院は全焼しました。この梶原堂は、昭和の時代に造成のため、清水・大内地区に移設されました。
現在は、老人いこいの家となっている梶原堂の横には、『毘沙門堂』と呼ばれる建物があります。この中には、毘沙門天・源頼朝の位牌・如意輪観音・梶原景時の位牌があります。もしかしたら北条政子から拝領したかもしれないそうです。
さらに、五輪塔(供養塔)をはじめに4つの墓があります。これらは梶原景時が亡くなった直後からのもののようです。

17.景時の遺跡『景時の終焉の地・梶原山』・・・・・

昔の矢崎山は、梶原景時の名前を取って梶原山と呼ばれるようになりました。山の途中には梶原一族のいくさの説明が、山頂には景時の供養碑があります。山は公園としてハイキングコースとなっております。展望台に立つと市街地が広がり、良く晴れた日には遠く伊豆半島まで望むことが出来ます。夜景もきれいで、山頂は梶原絶頂とも呼ばれ、まさに山頂の眺めは絶頂であります。

清水歴史散策シリーズ

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