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知っておきたい清水の歴史 第8話

第8話 東京―下田―清水の定期航空 エア・ガールと小泉逓信大臣

皆さんの中で、昔、東京(羽田)と清水(三保)を結ぶ定期航空便があったことをご存じの方はおりますか?さらに、定期航空便にはエア・ガールと呼ばれた元祖キャビンアテンダントが乗っていたといった話を聞いたことのある人はおりますか?また、清水の最初の飛行場について知っておられる方はおりますか?
今日は、清水の飛行場に関連した話を、私の知っている限り説明いたします。

1.清水にできた最初の飛行場
飛行場というと必ず思い出すのが、三保飛行場であります。この飛行場は、日本赤十字社の災害救護用の飛行場で、いつ頃からあるのかわかりませんが、清水に最初にできた飛行場ではありません。
最初にできたのは、『根岸飛行場』と言います。おそらく、ほとんどの清水の人が、名前すら知らないと思いますが、『根岸飛行場』の『根岸』とは地名のことではありません。『根岸飛行場』とは根岸錦蔵という人が造った飛行場なのです。
大正13年(1924)、三保の灯台の近くに完成したのです。この飛行場は、昭和5年(1930)まで、錦蔵によって使われておりました。
その後、昭和19年(1944)に清水海軍航空隊により根岸飛行場は利用されました。『清水三保青春の雄叫び・清水海軍航空隊史』という本には、「根岸飛行場格納庫には、魚探機1機と滑空機が2機格納されていた。」と記載されております。
そして、今では『甲科予科練記念碑』だけが、「根岸飛行場』の痕跡となっております。
2.関東大震災の発生
大正12年(1923)関東大震災が発生します。関東地方はもちろんのこと東海道線も破壊してしまいました。このため、横浜(後に東京)と清水(江尻ふ頭)の間を、飛行機で郵便物を運ぶようになったのです。
 この時の飛行機は水上飛行機で根岸飛行場はつかわれませんでした。この頃は、しっかりした滑走路がない場合には、水上飛行場の方が、離着陸が簡単だったようです。

3.東京―下田―清水の定期航空
一方、人を運ぶ航空事業ですが、東京航空輸送社という会社が、昭和4年(1929)に東京(羽田沖)―下田間の定期航空営業を開始したのです。
さらに、昭和6年(1931)には清水(三保の内海)まで延長することになったのです。この飛行機も水上飛行機でした。水上飛行機には、パイロットを含めて全員で6人しか乗れないような大きさで、翼が上下に2枚ついていたのです。さらに、着水用に飛行機の下に『フロート』が2つ付いておりました。
4.エア・ガールの誕生
そして、目玉として『エア・ガール』と呼ばれる女性乗務員が乗ることに、なったのです。
実は、アメリカでは昭和5年(1930)から女性の元看護師を客室乗務員として乗務させておりました。これは、機内で調子の悪くなった方の面倒をみてもらうこと「女性も乗れるような安全な乗り物である」とアピールするためといわれております。
これに対して、日本の『エア・ガール』は、機内でお客様にサービスもするのが目的だったようです。したがって、容姿が端麗な方が選ばれたようです。
『エア・ガール』は、エンジンのすぐ前に座って、飛ぶ前には話しをしたのですが、飛行中は、爆音で会話はできなかったようです。したがって、お客さんとは筆談が中心で、機内にバスケットを持ち込み、紅茶・ウイスキー・サンドイッチとかお茶菓子を手渡しでサービスしていたようです。
この『エア・ガール』の募集に、141名もの方が応募され3名が採用されました。応募された方もの職業は、芸者さん、学生さん、今でいうOLさんとか、いろんな多種多様なようです。
5.モダンガールから〇〇ガールの誕生
ところで、この『エア・ガール』という名称ですが、関東大震災の翌年、大正13年(1924)に初めてモダンガール(近代女性)という言葉が雑誌の見出しに登場しました。やがて、モダンガールは職業婦人を指す言葉となり、昭和6年頃には、バスガールをはじめ、エレベーターガールからマリンガール、ガソリンガールとあらゆるところで、『〇〇ガール』が使われるようになりました。したがって、この当時、『エア・ガール』は、新しい職業として憧れる女性も多かったように思われます。
戦後(昭和20年~)になるとサラリーガールという言葉が使われ始め、やがて昭和30年代にはビジネスガールと言う言葉が良く使われました。ビジネスガールを略してBGとか呼んで、私の子供の頃はBG1年生とか週刊誌に出ておりました。このビジネスガールは欧米ではエッチな職業ガールのことだそうです。
 そんなことで、昭和39年(1964)の東京オリンピックの2年前からビジネスガールは放送禁止用語になり、オフィスレディと言う言葉が使われるようになりました。また、エレベーターガールやバスガールは、しだいにその職業自体がなくなり、今では『〇〇ガール』なんて呼び名は懐かしいものになりました。

6.定期航空便の試験飛行
東京―下田―清水間の定期航空は、昭和6年4月1日というのが第一便ですが、その前の3月29日には試験飛行が行われたのです。
この時の試験飛行に参加したのが小泉逓信大臣とそのお嬢さんの芳江さんであります。
このころの飛行機は、主に郵便事業で利用されていたため、逓信省の航空局の管轄でした。そのため、わざわざ逓信大臣が試験飛行に参加したのです。

7.逓信大臣・小泉又次郎の紹介
ところで、この小泉逓信大臣は小泉又次郎と言いまして、小泉純一郎元総理大臣のおじいさんにあたる方なのであります。入れ墨があったことから「入れ墨の又さん」といわれたそうです。
この又次郎は、軍港として知られる横須賀で育ちました。又次郎の父は人入(ひといれ)稼業や土木事業を営む小泉組という家業を営んでおりました。後に、又次郎は小泉組の跡を継ぐことになり、この時に背中一面に入れ墨を入れたのです。その時から、又次郎は「小泉組の親分」と呼ばれるようになったのです。
この当時、小泉組と争っていた関東の親分が自由党だったので、対抗するため又次郎は改進党に入党します。この頃の政党には院外団といわれる武闘派が、凶器を持ってあばれていたのです。
その後、又次郎は市会議員・県会議員・国会議員となり大臣・衆議院副議長まで歴任いたしました。

8.小泉又次郎の家族
又次郎は国会議員になる時、小泉組は弟に譲り、芸妓置屋の女将と結婚しました。二人とも41歳の時であります。その翌年、又次郎が42歳の時、突然、芳江さんが生まれたことになっております。
又次郎は艶福家で有名で、常に女性が周囲にいましたが、子供はできませんでした。したがって、芳江さんは養女ではないかと思われます。
芳江さんは、小泉家の一人娘として大切に育てられ、大臣の娘として政治にも興味があったようです。そんな芳江さんは政党の事務員をした青年(鮫島純彌)に恋をして、青年のアパートに押しかけて同棲してしまったのです。
又次郎は大反対したのですが、最終的には折れて青年は芳江さんの婿となり、名前を小泉純也と改めます。小泉純也は生まれ故郷の鹿児島で二度目に国会議員に当選します。ところで、小泉純也は子供の小泉純一郎にそっくりのイケメンであります。いつの間にか、政治家の要件として容姿が大きくものをいう時代がきましたが、芳江さんはもしかしたら時代の流れを察知して容姿端麗の小泉純也を選んだのかもしれません。
9.小泉純一郎の登場
終戦後、又次郎・純也が公職追放となり一家は生活苦となりますが、芳江さんは次々と子供を産みます。上から女3人に男2人です。又次郎が亡くなり、公職追放が解かれると、純也は又次郎の選挙地盤を引き継ぎ、国会議員に返り咲きます。ところが、純也は昭和44年(1969)に65歳で急死します。

すぐに、長男の純一郎がイギリスから呼び戻され、立候補しますがあえなく落選します。しかし、その後は一家総出の支援の結果、当選し続けるのです。そして、芳江さんをはじめ姉3人と弟までもが、純一郎の政治家としての収入で生活するのです。純一郎が落選すれば一族が路頭に迷う政治家一家になっていたのです。
小泉純一郎が、結婚したのは36歳の時です。相手はエスエス製薬(非上場)の元社長の孫娘・佳代子さんです。結婚後すぐに、純一郎の家に姑(しゅうとめ)や小姑(こじゅうと)と一緒に暮らすことになったのです。当初、佳代子さんは「政治の手伝いはしなくて良い」と言われたのですが、政治家一家に嫁いだため、直ぐに選挙の手伝いをさせられました。さらに、複雑な政治家一家の人間関係のためか長男の孝太郎と次男の進次郎を出産した後、体調を崩していくのです。
この結果、佳代子さんは議員宿舎に引っ越ししたのです。夫と子供だけの生活を送るようになり、佳代子は心身が回復し三男を宿します。ところが、小泉家の親族と佳代子さんの亀裂は、深くなっていきました。
純一郎は、小泉家の家族と奥さんの佳代子のどちらかの選択をしなければならなくなったのです。結果、小泉家の家族を取る決断をいたします。この時、純一郎は「離婚は結婚の10倍大変」と言ったそうです。佳代子さんは、三男(佳長よしなが)がお腹の中にいる妊娠6か月の時に、離婚されることになります。そして、長男の孝太郎と次男の進次郎は純一郎に引き取られることになります。
その後、純一郎が総理大臣になると、芳江さんは93歳で亡くなります。佳代子さんは、芳江さんの葬儀に行ったのですが、焼香の席から締め出されたそうです。
10.小泉進次郎登場
小泉純一郎は、自分の政界引退と引き換えに次男・進次郎の政治家世襲を発表します。「自民党をぶっ壊す。」とか「古い体質を変える」と言っておりましたが、政治家一家・小泉家の体質は変わらないようです。
昭和56年生まれの小泉進次郎は、高校までは野球に明け暮れ、関東学院大学卒業後も定職に就きませんでしたが、突然、コロンビア大学大学院に留学して修士号を取得後、米国戦略国際問題研究所(CSIS)の研究員となります。その後、純一郎の秘書となり国会議員を世襲するのです。
いつの間にか、『エア・ガール』の話から脱線してしまいました。容姿端麗で、人気の高い小泉進次郎に期待しながら、『エア・ガール』の話に戻ります。

11.エア・ガールの待遇
さて、『エア・ガール』に実際に支払われた給料は16円から17円だったそうです。これに対して、飛行機の東京‐清水間の片道料金は、25円だったそうです。今の金額に直すとなると、単純にこれを『万』を付けて、『エア・ガール』の給料は16万~17万円、片道の飛行機代金は25万円といった感じです。

なお、その当時の時刻表を見ると、飛行機は月・水・金の週3日間だけ、それも1往復だけ飛んでいただけです。乗客の中には、飛行中は爆音で何も聞こえず、ウイスキーの接待をされ、しかも目の前に若い美人の『エア・ガール』いたため、不埒(ふらち)な行動を取る方もいたようです。
さらに、『エア・ガール』の給料は予想外に低かったことや『エロ・ガール』などと誹謗中傷されたりしたこともあり、最初の給料をもらった時点で3人とも辞めてしまったそうです。


その後、航空会社の方は待遇を改善して、1回の飛行につき3円、地上勤務につき1日1円として、エア・ガールの再募集をかけたそうです。その結果、マスコミでも評判となり、宣伝効果もあったようで、『東京航空輸送社』の採用試験に300名以上の応募者が来たそうです。
さらに、大手の航空会社も『エア・ガール』を採用するようになったため、『エア・ガール』は定着するようになったそうです。清水の『エア・ガール』は、まさに『スチュワーデス』の始まりとして、貴重な存在であることに間違いありません。

12.三保水上飛行場
最後に、東京からの水上機が着水していたという三保の内浜海岸の説明をいたします。水上飛行機のため、滑走路がないもので場所の特定は難しいのですが、真崎(まさき)の内側の水面に降りていたと思われます。
水上飛行機は、船が着くような感じで着きます。乗り場があって、桟橋が出ていて、その他は単なる砂浜で良かったのです。当時の飛行機は性能的には低かったのですが、波が穏やかなら着水するのに難しくはなかったのです。

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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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