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知っておきたい清水の歴史 第9話

第9話 興津の西園寺さんと3人の奥さん?

清水区の興津。清見寺(せいけんじ)の門前、旧国道1号線沿いに、ひときわ重厚な板塀に囲まれた建物があります。最後の元老として知られた、西園寺公望(きんもち)公の終の住みかとなった坐漁荘(ざぎょそう)です。
もっとも、坐漁荘の本物の建物は、昭和45年(1970)に明治村に移設されており、現在興津にある建物は、平成16年(2004)、興津の人々の熱意により復元されたものです。かつての興津は、この坐漁荘の持ち主である西園寺公望さんによって、日本全国にその名が知れ渡っていたのです。


今日は、この興津の西園寺さんについては話してみたいと思います。西園寺さんは、①聡明で国際的視野を持った穏健な自由主義者、②学識豊富で、多趣味な文化人、③貴族気質で、政治欲に欠けるとされております。一方では、戦争を止められなかった「失敗した政治家」と論じる人もいるようです。
しかし、このような一般的な西園寺像とは違う別の顔があったのです。それは、若い「妻」をもつ西園寺さんの私生活の顔であります。西園寺さんの実像に迫るためには、西園寺さんの私生活についても知る必要があるのではないかと思います。

1.西園寺さんの生い立ち
西園寺さんは、公家の中でもかなり身分の高い家柄に生まれ、2歳の時に西園寺家の養子になりました。ところが、養父がすぐに亡くなったため、幼くして西園寺家の当主となったのです。そして、11歳の時には御所に出入りするようになり、3歳年下の睦人(むつひと)親王(後の明治天皇)の遊び相手となったのです。
明治元年(1868)、19歳の時には維新政府軍で活躍しますが、その後、フランス留学を希望し、明治4年(1871)、22歳の時にパリに留学し明治13年(1880)に帰国します。ところが、この留学中に日本は大きく変わっており、帰国後の西園寺さんは浦島太郎のような心境だったようです。
2.西園寺さんの最初の奥さん?
西園寺さんは、帰国した翌年の明治14年(1881)32歳の時に、最初の妻であるお菊さん(小林菊子:16歳)を身請けします。お菊さんは当時、新橋の宝来屋の『玉八』という名の芸妓だったのです。お菊さんは、落ちぶれた旗本の娘で、生活苦のために芸妓に出されたそうです。お菊さんは、美貌で気品があるだけでなく、才色兼備の女性でした。
西園寺さんの奥さん?(*1)となった後は、西園寺さんのお母さんの斐子(あやこ)さんと一緒に住んで、漢学と和歌を学んで教養を身につけました。
このように、明治の初め頃には、芸妓を妻とすることが流行しておりました。木戸孝允(たかよし=桂小五郎)は芸妓『幾松(いくまつ)』を、伊藤博文は『梅子(うめこ)』を、大久保利通には京都妻「おゆう」を妻としております。
*1 西園寺さんは生涯正式な結婚はしていないので、あえて奥さん?と、奥さんの後ろに?をつけて表現しました。(以下同様です。)

3.憲法調査会に参加
明治15年(1882)33歳の時に、西園寺さんは伊藤博文の随行員として、憲法調査のためヨーロッパに行きます。これ以降、西園寺さんは伊藤博文と親しくなり、政府の重要ポストに就くことになります。翌明治16年(1883)西園寺さんは帰国します。しかし、明治18年(1885)には、オーストリア公使として再びヨーロッパに出発することになり、翌明治19年(1886)には帰国し、翌明治20年(1887)にはドイツ公使としてヨーロッパに赴任することになります。

4. 長女新子が生まれる
 明治20(1887)年12月、菊子さんとの間に女の子が生まれ、新子(しんこ)と西園寺さんが名づけました。新子の「新」は、維新の『新』です。西園寺さんの気持ちを表しているそうです。
 なお、新子さんは小林新子ではなく、西園寺新子と名乗っております。西園寺公望の子供として、かなりの教育も受けておりました。
 さらに、新子さんは明治39年(1906)には、元長州藩主・毛利元徳の八男・毛利八郎と結婚します。毛利八郎は、婿養子として、西園寺八郎と改名し、西園寺家の家督と公爵の爵位を引き継ぐことになったのです。
 このような事実を考えると、西園寺さんの最初の妻・菊子さんは、正式な奥さんと変わらないような気も致します。なお、八郎・新子の夫婦には、公一、二郎、不二男、愛子、春子、美代子と多くのお子さんが生まれております。

5.西園寺さん政界入りと日清戦争・日露戦争
 明治24年(1890)、42歳の時に帰国した西園寺さんは、伊藤博文の後継者のごとく政界入りを致します。貴族院副議長を皮切りに枢密院議長・内閣総理大臣などを歴任します。この間には、明治27年(1894)には日清戦争が起き、明治37年(1904)には日露戦争が起きております。

ところで、私どもは、日清戦争→三国干渉→遼東半島返還→臥薪嘗胆(がしんしょうたん)→日露戦争と日清戦争から日露戦争までは、一直線の避けられない戦争だったと教育されていました。しかしながら、戦争に積極的だったのは、山県有朋・桂太郎首相・小村寿太郎外相で、消極的だったのが伊藤博文・西園寺さんや立憲政友会だったのです。
さらに、ロシア側は、日本には大国ロシアと戦う意思はないだろうと見くびっており、日露交渉は難航、ようやくロシアから妥協案が届いた時には戦争が始まっていたのであります。もし、伊藤さんや西園寺さんの考えどおり戦争を避けていれば、日本の歴史・世界の歴史は大きく変わっていたと思います。
戦争の準備をしていた日本と準備をしていなかったロシアの戦争は、日本に予想以上の勝利をもたらし、辛うじて日本が勝つことができましたが、国民の思っているほどの勝利ではなかったのです。
日露戦争後のポーツマス講和条約は、話し合う前から日本国民が批判することがわかっていたため、桂内閣は西園寺さんの所属する政友会との間で、講和条約成立に賛成する代わりに政権交代をする、との密約を交わしたのであります。明治39年(1906)1月7日、密約通り西園寺内閣が発足いたします。西園寺さんが57歳の時であります。この内閣、伊藤博文や山県有朋・桂太郎の発言権が大きくて、西園寺さんは実力発揮ができませんでした。
それでも、西園寺さんは、日米協定、日仏協約、日露協約、第三次日韓協約、第二回日英同盟協約の締結や軍拡の抑制に貢献したのです。ところが、病気の悪化もあり明治41年(1908)7月4日辞任することになりました。
西園寺さんの次は、第二次桂内閣であります。この桂太郎と西園寺さんは仲が良く、桂は妾(めかけ)のお鯉(こい)を、西園寺さんは二番目の奥さん?中西房子を同伴して時々食事を共にしたのであります。

6.西園寺さんの2番目の奥さん?
 西園寺さんは、『ふさ奴』という芸者(中西房子)を、日露戦争の頃に2番目の奥さん?としたようであります。西園寺さんは55歳、房子さんは20代前半と思われます。
この頃、最初の奥さん?お菊さんは大磯の別邸に住んでおり、房子さんは駿河台の本宅に住むことになりました。お菊さんの子供・新子さんは、前述のとおり、結婚して、毛利(西園寺)八郎を婿としております。また、西園寺八郎は、西園寺さんとは仲の良い桂太郎の秘書官となっております。
少なくとも、西園寺さんは両方の奥さん?と、うまくやっていたようであります。
写真は、中西房子さん(右)とその娘さん(一人は養女)
その後、西園寺さんと房子さんの間には、園子さんという娘が生まれます。園子さんは、中西園子ではなく西園寺園子として育ちました。最初の奥さん?の子供も2番目の奥さん?の子供も「西園寺」姓を名乗っており、実質的には、西園寺さんの「妻」と呼べる存在だと思います。
7.第一次世界大戦とパリ講和会議
明治42年(1909)10月26日、日韓併合に反対していた伊藤博文が暗殺されました。その翌年の明治43年(1910)には、日韓が併合され、明治45年(1912)の7月29日には明治天皇が崩御され、政治の最終的な調停者を失い、政治は混迷を深めていきます。
大正3年(1914)には第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟を理由に連合国側に立って参戦します。日本は戦争の負担が低く、かってない好景気を迎えます。西園寺さんは大正5年(1916)67歳の時に、元老の一員となります。
大正7年(1918)第一次世界大戦が終わり、パリで講和会議が開かれることになりました。西園寺さんは全権委員として、パリに出発します。

8.西園寺さんの3番目の奥さん?の登場
大正8年(1919)1月、パリで行われる講和会議に向かう西園寺さんの乗った『丹波丸』には、2番目の奥さん?である中西房子と娘の元子(養女)・園子の他に、3番目の奥さん?と呼ばれた『お花さん』が乗っていたのです。
お花さんは奥村花子といい、明治28年(1895)に滋賀県大津市の貧しい農家に生まれ、口入屋(*2)の仲介で西園寺さんの女中になりました。お花さんは、2番目の奥さん?中西房子さんのお伴として大正5年(1916)に興津の旅館・水口屋(みなぐちや)に西園寺さんと供に行っております。この時、お花さんは21歳でした。
(*2)口入屋:くちいれや:職業紹介業:清水では一般に紹介業者を『くにゅう』と呼んでおりました。狭い意味で、『くにゅう』と言うと清水では『不動産業者』のことを言うようです。


「丹波丸」が上海に停泊すると、地元の新聞は「お花」のことを「日本における最もしとやかにして謙遜なる美人なり」と報じました。香港では、英字新聞『チャイナ・ガゼット』が「お花」は西園寺の「愛妾(あいしょう)」であると書いたのであります。
9.興津・坐漁荘の完成と長女新子との永別
大正8年(1919)8月、西園寺さんは、群衆の歓喜の声を受けて、神戸港に帰国します。神戸から東京に向かう列車の中では、3番目の奥さん?となる「お花さん」が注目を浴びます。
東京へ向かう列車の中でも、新聞記者は「お花さん」の動静を気にしていました。お花さんは西園寺さんの隣室の便所脇の談話室に、人目を避け、鍵をかけて乗車していました。神戸を出発し12時間たって、便所に出たところに写真班が群がると、白い洋装のお花さんは顔を赤らめ「妾(わたし)、写真なぞいやですわ」と、用も足さずに部屋に逃げ込み、東京に着くまで一度も出てこなかったそうです。

この年(大正8年)の9月には、興津の坐漁荘が完成します。この頃から、西園寺さんは1年の4分の3を興津で過ごすことになるのです。また、お花さんも華やかな都会を離れ、この寂しい興津の別荘に住むことになったのです。そして、興津の西園寺さんのもとへ、たくさんの政治家や軍人が訪ねて来るようになったのです。
翌年の大正9年(1920)には、最初の奥さん?お菊さんの長女・西園寺新子がスペイン風邪で突然亡くなります。享年32歳の若さでした。この結果、西園寺さんは、新子の夫の西園寺八郎と次第に疎遠になり、必然的に西園寺さんは孫たち(新子の子供たち)とも疎遠になっていくのでした。
大正10年(1921)には、原敬首相が暗殺されます。そして、山県有朋は原敬の暗殺に衝撃を受け発熱してしまい、大正11年(1922)2月に永眠したのです。この結果、西園寺さんは元老として、ますます影響力を持つことになります。

10.『お花さん騒動』の前触れ
 関東大震災の起きた翌年の大正13年(1924)に『お花さん』に『加代子』という女の子が誕生します。西園寺さんそっくりという噂もありますが、西園寺さんの年齢を考えると違うと思われます。
生まれたばかりの加代子さんはすぐにお花さんの実家の方に引き取られました。最初の奥さん?の子供・新子も2番目の奥さん?の子供・園子も西園寺姓を名乗り育てられたのとは大きく待遇が違います。このことからも、西園寺さんの子供ではないと思われます。
しかし、西園寺さんはよほどお花さんに惚れていたとみえ、よその子を産んだお花さんを追い出しませんでした。西園寺さんは、少なくとも昭和2年(1927)の87歳の時まではすこぶる元気でした。これは、お花さんの存在なしでは考えられません。

11.『お花さん騒動』
ところが、昭和3年(1928)の1月末には西園寺さんは重い病気にかかり、一時は面会もできないくらいになってしまいました。
その原因が、『お花さん騒動』なのです。実は、西園寺さんが重病になる前に、お花さんは出入りの某銀行の行員の子供を身ごもってしまったのです。
単なる女中さんなら簡単に解雇されるのですが、なにせ3番目の奥さん?です。ようやく、執事の熊谷八十三がお花さんを追放することを決意して、私設秘書で貴族院議員の中川、養嗣子の八郎、二番目の妻との間の娘園子も加わって西園寺さんを説得して、3月2日に追い出しました。
お花さんが暇をもらったことは、新聞記事にもなったのです。

ところで、花子さんは出ていくとき、荷物を15~16個持っていき、倉庫の中のタンスの引き出しが空になったそうです。さらに、追い出されてから1か月後、花子さんはお母さんと供に静岡駅からタクシーに乗って、坐漁荘を乗り込んできたそうです。やはり、三番目の奥さん?としての慰謝料が欲しかったのだと思います。

12.『お花さん騒動』の仕事(政治)への影響
仕事がうまくいっていないと、家庭生活にも影響を与えますし、家庭生活も仕事に影響を与えます。70代の西園寺さんの場合も、30代の奥さん?のお花さんとの間がうまくいっていると時は、西園寺さんも元気良く、仕事(=政治)も順調でした。
『お花さん騒動』は、西園寺さんの病気や体調、さらには仕事(=政治)にも影響を与えたのです。
『お花さん騒動』が起きた年には、『満州某重大事件』が起きます。関東軍が、満州の軍閥・張作霖を満州鉄道にて爆破して暗殺、国民党の仕業に見せかけようとしたのです。この事件をきっかけに、日本は戦争への道を歩き始めます。しかし。この時戦争を避けたいはずの西園寺さんは、あまりにも消極的だったのです。

13. 女中頭の綾子(あやこ)さん
お花さんが追い出された後の女中頭は八木悦子という女性でした。この下で、働くことになったのが綾子さんです。
綾子さんはお花さんの次に、西園寺さんのお気に入りの女中だったようです。綾子さんは京都市の住職の娘で漆葉綾子(うるしばあやこ)といい、一度結婚して子供も産んだのですが、離縁されたそうです。このお綾(あや)さんの写真は興津坐漁荘にも飾ってありますが、容姿は中肉中背の十人並みで、お花さんが追い出された昭和3年(1928)には26歳だったそうです。
女中頭になったばかりの悦子さんは、綾子さんにいじめられて辞職してしまいます。その後は綾子さんが女中頭になりました。ただし、綾子さんは西園寺さんのお気に入りの女中さんでしたが奥さん?とは認められておりません。
さて、綾子さんは悦子さんを追い出した後、若い女中、警備の巡査部長、別の女中、男の使用人、看護婦と次々にいじめの対象にしたそうです。これは、西園寺さんがストレスにより癇癪(かんしゃく)を起こし、それが綾子さんへの重圧になり、その結果他人への攻撃になったことが原因ではないかと思われます。
興津の坐漁荘には『綾子さん』の写真が飾ってあります。容姿は並ですが、妙に存在感が感じられます。
ここまでくると、さすがに西園寺さんも気がつき、綾子さんに注意をしたのです。この結果、綾子さんは西園寺さんに仕えることに精を出し、綾子さんのいじめはなくなったそうです。

14.その後の日本
『お花さん騒動』からの家政の騒動の結果、西園寺さんは政治的に動かず、『満州某重大事件』からはじまった『満州事変』は拡大の一途となります。このころから、『反戦論者は売国奴』といった世論が形成されていくのです。
昭和7年(1932)3月1日、関東軍は満州国建国を宣言します。さらに、5月15日、五・一五事件が起き犬養首相が暗殺されます。「犯人は愛国者」といった世論が形成され、減刑嘆願書が山のようになったのです。
昭和7年(1932)10月、満州事変のリットン調査報告書が送付されてきました。内容は、満州国を承認しないものの、満州事変以前に比べて大幅に日本の権利を認めるものだったのですが、日本の新聞はこの報告書に批判的であったのです。
いつの間にか、「満州は日本の生命線」といった世論が形成されていきます。この年、関東軍は熱河省(ねっかしょう)に侵入しますが、昭和天皇は勘違いして認可してしまいました。
国際連盟を脱退する松岡洋右外相
これに対して、国際連盟では満州事変以前の状態に戻すという勧告案が採決されます。この勧告案の採決が可決した後、日本は国際連盟を脱退することになります。

『国際連盟脱退』の日本の世論
----よくぞ世界にもの申した。
昭和11年(1936)2月26日、二・二六事件が発生いたします。二・二六事件の日は珍しく興津に雪が降りました。西園寺さんも襲撃対象になっている、という報を受け、清水警察署署員に守られながら知事官舎に一時避難した西園寺さんですが、『どうせ死ぬなら坐漁荘の居間がよい』といって帰宅したのであります。
翌年の昭和12年(1937)日独伊三国軍事同盟が提案され、相和15年(1940)にはベルリンで調印されます。当時の世論は、『ヒットラ―のドイツは強い。』であります。こうして、日本は戦争への道を歩んで行くのです。
西園寺さんは、日独伊三国同盟に反対だったのですが、かつてのような政治への緊張感を欠いており、自分自身の意見を主張しなかったのです。世論は「日米開戦やむなし」となりました。
そして、昭和15年(1940)10月23日最後の誕生日を迎えた西園寺さんは、11月24日坐漁荘にて永眠されたのです。

14.最後に
 最後の元老・西園寺さんは、フランスが大好きだったのですが、人生の後半は、アメリカ・イギリスとの連携を重視しなければいけないと、身内の者に話していたそうです。また、日本の国粋主義的なナショナリズムに対しては、行き過ぎを憂いていたようです。
 『お花さん騒動』を始めとする家庭不和がなく、西園寺さんが積極的に自分の意見を言っていたなら、もしかしたら、歴史が変わっていたかもしれません。

清水歴史散策シリーズ

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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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1.各種税務相談・税務申告
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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