第10話 田中智學の国柱会・最勝閣と羽衣木橋
皆さんは、宮沢賢治が、妹トシの遺骨を抱いて清水に来たという話を聞いたことがありますか?田中智學、国柱会、竜宮城、八紘一宇、羽衣木橋という言葉を知っていますか?
今回は、田中智學の国柱会、竜宮城と呼ばれた三保の最勝閣それと羽衣木橋について、私の知っている限りを話させて頂きます。
1.天女伝説の三保は、昔からの聖地
三保は、平成25年(2013)富士山世界文化遺産の構成資産に登録されました。三保松原には、天女伝説で知られる羽衣の松があります。また富士山信仰の一部として、富士山との関係性がきわめて深く、富士山信仰の象徴的な「富士曼荼羅図」を始め、多くの絵図に「三保松原」が信仰の対象として描かれています。
このため、三保松原のある清水は、古くからの新興宗教のメッカだったようで、異端の宗教が相次いで生まれ、育っております。
元「御穂神社」の宮司で、現在の清水区岡町にある「月見里笠森稲荷」の宮司であった長澤雄楯(かつたて)は、神社を尋ねてきた者を神がかり状態にし、日露戦争の開戦日や勝敗まで言い当てました。
さらに清水では、三五(あなない)教を初めとする宗教が起きました。PL教(パーフェクト リバティー教団)の本部も清水にありました。その頃、PL教は「ひとのみち」と呼ばれており、清水駅の近くに本部があり、多い時には10万人を越える信者がいたそうです。PL教が清水の馬走に本部を移設しようとしたとろ、地元住民の反対にあい、その話を聞きつけた塩爺こと塩川正十郎(*1)の父親である塩川正三が誘致に動き、大阪に移転したとのことです。
(*1)小泉内閣発足時から財務相を務め、一時期はかなり有名でした。
さて、この清水に関係のある新興宗教の中で、その後の日本に大きな影響を与えたのが、国柱会です。清水には、『竜宮城』といわれた国柱会・本部の最勝閣があったのです。そして、国柱会が建設したと言われた『羽衣木橋』が、巴川の河口と三保半島を結んでいたのです。
今回は、田中智學の国柱会、竜宮城と呼ばれた三保の最勝閣それと羽衣木橋について、私の知っている限りを話させて頂きます。
1.天女伝説の三保は、昔からの聖地
三保は、平成25年(2013)富士山世界文化遺産の構成資産に登録されました。三保松原には、天女伝説で知られる羽衣の松があります。また富士山信仰の一部として、富士山との関係性がきわめて深く、富士山信仰の象徴的な「富士曼荼羅図」を始め、多くの絵図に「三保松原」が信仰の対象として描かれています。
このため、三保松原のある清水は、古くからの新興宗教のメッカだったようで、異端の宗教が相次いで生まれ、育っております。
元「御穂神社」の宮司で、現在の清水区岡町にある「月見里笠森稲荷」の宮司であった長澤雄楯(かつたて)は、神社を尋ねてきた者を神がかり状態にし、日露戦争の開戦日や勝敗まで言い当てました。
さらに清水では、三五(あなない)教を初めとする宗教が起きました。PL教(パーフェクト リバティー教団)の本部も清水にありました。その頃、PL教は「ひとのみち」と呼ばれており、清水駅の近くに本部があり、多い時には10万人を越える信者がいたそうです。PL教が清水の馬走に本部を移設しようとしたとろ、地元住民の反対にあい、その話を聞きつけた塩爺こと塩川正十郎(*1)の父親である塩川正三が誘致に動き、大阪に移転したとのことです。
(*1)小泉内閣発足時から財務相を務め、一時期はかなり有名でした。
さて、この清水に関係のある新興宗教の中で、その後の日本に大きな影響を与えたのが、国柱会です。清水には、『竜宮城』といわれた国柱会・本部の最勝閣があったのです。そして、国柱会が建設したと言われた『羽衣木橋』が、巴川の河口と三保半島を結んでいたのです。

2.国柱会について
国柱会は、田中智學(1861-1939)という人が設立した宗教団体です。智學は宗門改革を目指して、明治13年(1880)に横浜で蓮華会を設立。その後、活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称し、明治43年(1910)に三保に最勝閣を造ったのです。
同じ頃、羽衣木橋が完成しました。国柱会と名乗ったのは、最勝閣ができた後の大正3年(1914)からであります。
同じ頃、羽衣木橋が完成しました。国柱会と名乗ったのは、最勝閣ができた後の大正3年(1914)からであります。
『最勝閣』は、駿河湾を隔てて富士山が望める三保に建設され、『竜宮城』ともいわれました。
では、智學ひきいる国柱会とは、どんな宗教なのでしょうか?
では、智學ひきいる国柱会とは、どんな宗教なのでしょうか?

国柱会の写真を見ますと、仏教(日蓮宗)というよりも神教(天皇をお祭りする神教)のような感じがします。智學の国柱会は純正日蓮主義を奉じる宗教右派として、国体思想への関わりを深く持った宗教として知られているのです。
『国柱会』は、日蓮上人の「我日本の柱とならん」から智學によって命名されたのです。
『国柱会』は、日蓮上人の「我日本の柱とならん」から智學によって命名されたのです。

3.八紘一宇(はっこういちう)について
国柱会の思想は『八紘一宇』という言葉に凝縮されております。
『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」から、智學が造った『八紘一宇』とは、「天下を一つの家のようにする」という意味なのです。
『八紘一宇』という言葉は、近衛内閣が「皇国の国是は『八紘を一宇とする肇国(ちょうこく、建国の意)の大精神に基づく」と述べたことから、当時の流行語になりました。
戦前の日本は大家族主義で、『家』という概念が重要な役割を持っておりました。家では、男系の男子の長老が戸主(家長)として、家の中心にあるのです。戦前は、「家」を単位として1つの戸籍が作られ、戸主である家長がそこに所属する家族全員を絶対的な権利をもって統率(支配)する仕組みだったのです。戸主(家長)は家で一番「年長の男性」と決まっていました。この仕組みは、現在の天皇制と同じなのであります。
『八紘一宇』は、天皇陛下を国家の家長と考えて国を治めていくという考えで、その思想は『大東亜共栄圏構想』にまで広がっていったのです。『世界は一家、人類は皆兄弟』という言葉は、『八紘一宇』の延長なのです。
国柱会の思想は『八紘一宇』という言葉に凝縮されております。
『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」から、智學が造った『八紘一宇』とは、「天下を一つの家のようにする」という意味なのです。
『八紘一宇』という言葉は、近衛内閣が「皇国の国是は『八紘を一宇とする肇国(ちょうこく、建国の意)の大精神に基づく」と述べたことから、当時の流行語になりました。
戦前の日本は大家族主義で、『家』という概念が重要な役割を持っておりました。家では、男系の男子の長老が戸主(家長)として、家の中心にあるのです。戦前は、「家」を単位として1つの戸籍が作られ、戸主である家長がそこに所属する家族全員を絶対的な権利をもって統率(支配)する仕組みだったのです。戸主(家長)は家で一番「年長の男性」と決まっていました。この仕組みは、現在の天皇制と同じなのであります。
『八紘一宇』は、天皇陛下を国家の家長と考えて国を治めていくという考えで、その思想は『大東亜共栄圏構想』にまで広がっていったのです。『世界は一家、人類は皆兄弟』という言葉は、『八紘一宇』の延長なのです。

『八紘一宇』は、関東軍軍歌や愛国行進曲にもでてきます。
戦後の極東軍事裁判の検察側は、「軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、繰り返し、繰り返し、唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」と主張しております。
戦後の極東軍事裁判の検察側は、「軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、繰り返し、繰り返し、唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」と主張しております。
これに対して、弁護側は「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」と主張しました。 終戦後は、GHQの神道指令によって、『八紘一宇』の語句は「国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させる。」として、公文書における使用が禁止されました。
4.羽衣木橋と国柱会
次に『羽衣木橋』について説明いたします。
明治43年(1910)日韓併合の年に、三保に国柱会の『最勝閣』ができあがりますが、同時に巴川の河口と三保半島を結ぶ『羽衣木橋』が完成します。
この羽衣木橋は、国柱会が造ったかとか国柱会の寄付によって創られたと言われております。
ただ、不思議なことに国柱会100年史には羽衣木橋に関連する記事は見当たりませんでした。
羽衣木橋の延長線には、御穂神社の参拝用の道が、一本道でつながっています。
4.羽衣木橋と国柱会
次に『羽衣木橋』について説明いたします。
明治43年(1910)日韓併合の年に、三保に国柱会の『最勝閣』ができあがりますが、同時に巴川の河口と三保半島を結ぶ『羽衣木橋』が完成します。
この羽衣木橋は、国柱会が造ったかとか国柱会の寄付によって創られたと言われております。
ただ、不思議なことに国柱会100年史には羽衣木橋に関連する記事は見当たりませんでした。
羽衣木橋の延長線には、御穂神社の参拝用の道が、一本道でつながっています。

羽衣木橋は大正12年(1923)に、橋の老朽化と港の修築のために取り壊されました。
一方の最勝閣は、昭和5年までありました。清水の工業化が原因のようですが、羽衣木橋が無くなって交通の便が悪くなったのも一因かもしれません。
一方の最勝閣は、昭和5年までありました。清水の工業化が原因のようですが、羽衣木橋が無くなって交通の便が悪くなったのも一因かもしれません。

5.国柱会と有名人との繋がり
国柱会のHPでは、『田中智學先生に影響を受けた人物』として、坪内逍遥・竹内久一・高山樗牛・姉崎正治・田中光顕・植中直斎・山本鼎・北原白秋・ポール・リシャール・宮沢賢治・食満南北・石原莞爾・中里介山・武見太郎などの名前が挙がっております。
私は、清水に与えた影響と日本国に与えた影響を考えて、宮沢賢治・北原白秋・高山樗牛・石原莞爾・井上日召・北一輝の6人の人物を挙げて、国柱会との関係について考察していきたいと思います。
6.童話作家・宮沢賢治と国柱会
最初に宮沢賢治について説明いたします。宮沢賢治(1896~1933)は、岩手県の花巻市に生まれた童話作家として有名です。
国柱会のHPでは、『田中智學先生に影響を受けた人物』として、坪内逍遥・竹内久一・高山樗牛・姉崎正治・田中光顕・植中直斎・山本鼎・北原白秋・ポール・リシャール・宮沢賢治・食満南北・石原莞爾・中里介山・武見太郎などの名前が挙がっております。
私は、清水に与えた影響と日本国に与えた影響を考えて、宮沢賢治・北原白秋・高山樗牛・石原莞爾・井上日召・北一輝の6人の人物を挙げて、国柱会との関係について考察していきたいと思います。
6.童話作家・宮沢賢治と国柱会
最初に宮沢賢治について説明いたします。宮沢賢治(1896~1933)は、岩手県の花巻市に生まれた童話作家として有名です。

賢治の家は、もともと浄土真宗でした。ところが、盛岡高等農林学校に進学してから、法華経の信仰が深まり、大正9年(1920)に『国柱会』に入会しました。
賢治が26歳の時、最愛の妹トシが亡くなりましたが、賢治は宗派が違うということでトシの葬儀に参列しなかったそうです。
賢治が26歳の時、最愛の妹トシが亡くなりましたが、賢治は宗派が違うということでトシの葬儀に参列しなかったそうです。
国柱会のHPには「大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参し、今は妙宗大霊廟(れいびょう)に納鎮されている。」と記載されております。
賢治は妹トシの遺骨を抱いて、当時あった『羽衣木橋』を渡ったのは間違いありません。
賢治の『雨ニモマケズ』の詩は、実は賢治の日蓮教徒の決意を表すものなのです。参考までに、『雨ニモマケズ』の最初と最後を掲載します。
賢治は妹トシの遺骨を抱いて、当時あった『羽衣木橋』を渡ったのは間違いありません。
賢治の『雨ニモマケズ』の詩は、実は賢治の日蓮教徒の決意を表すものなのです。参考までに、『雨ニモマケズ』の最初と最後を掲載します。

最後の手帳の日蓮宗特有の『南無妙法蓮華経』の題目の文字がそれを表しております。賢治は、このように、法華経・日蓮に対する信仰があったのです。
国柱会の賢治への影響ですが、国柱会百年史では、賢治は死ぬまで国柱会に傾注していたように書かれております。
しかし、賢治が帰郷してからは、国柱会と賢治は交流があった形跡はありません。国柱会の国粋ファショシズムは、賢治には合わなかったのです。
国柱会の賢治への影響ですが、国柱会百年史では、賢治は死ぬまで国柱会に傾注していたように書かれております。
しかし、賢治が帰郷してからは、国柱会と賢治は交流があった形跡はありません。国柱会の国粋ファショシズムは、賢治には合わなかったのです。


7. 詩人・北原白秋と国柱会
北原 白秋(1885~1942)は、日本の詩人として有名で、数々の童謡の作詞をしております。
清水では、『ちゃっきり節』を作詞したことで有名です。実は、静岡電気鉄道(静岡電鉄。現在の静岡鉄道)が、狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド。1993年閉園)のコマーシャルソングとして、北原白秋に作詞を依頼して、制作されたのです。
清水では、『ちゃっきり節』を作詞したことで有名です。実は、静岡電気鉄道(静岡電鉄。現在の静岡鉄道)が、狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド。1993年閉園)のコマーシャルソングとして、北原白秋に作詞を依頼して、制作されたのです。
静岡電鉄は、白秋に作詞を依頼したのですが、白秋は芸者遊びを続け、一向に作詞をしなかったのです。そこで、静岡電鉄が作詞依頼の取り下げを検討し始めたのです。
ところが、芸者遊びの最中に、芸者が清水の方言で「きゃあるがなくんてあめずらよ。」と言ったのです。標準語に直すと『カエルがなくので雨が降りそうだ。』となるのですが、白秋はこの方言がいたく気に入り、『ちゃっきり節』の歌詞を創作したのです。
この『ちゃっきり節』は、昭和2年(1927)に地元芸妓衆の歌・踊りによって発表されたのですが、当初は全くヒットしなかたのです。ところが、芸妓から歌手に転身した市丸が昭和6年(1931)にレコードに吹き込み、その後、大ヒットしたのです。
なお、市丸はレコード化する際に「啼くんで」と標準語で歌ったのですが、清水の正しい方言は『啼くんて』と濁音ではありません。清水の皆さんは気を付けてください。
さて、白秋と国柱会とはどんな関係だったのでしょうか?
白秋は、大正13年(1924)に智學の招きで、両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに国柱会・最勝閣を訪れております。その時、白秋は三保の最勝閣を詠じた長歌・反歌そして短歌も残しております。
白秋が国柱会に入っていたとか日蓮信仰をもっていたということはないと思います。しかし、「両親は歓喜した。」との記載もあり、もしかしたら両親は信仰していたかもしれません。
なお、国柱会の資料によると、白秋は、智学の門下生とは学友で、白秋の菊子夫人は、白秋と結婚前、智学に仕えていたとあります。
いずれにせよ、白秋と国柱会との関係は深かったようです。
また、この当時の国柱会には、高知・佐川の出身で最後の勤王志士といわれた田中光顕をはじめ、多くの政財界人が出入りしておりました。静岡電鉄は白秋が国柱会の最勝閣を訪れたことが縁で、つきあったと思われます。その結果『ちゃっきり節』が生まれたのかもしれません。
8.ドイツ文学者・高山樗牛と国柱会
高山樗牛(1871~1902)はドイツ文学者として有名です。日本主義、ロマン主義、ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷が激しいのが特徴ですが、晩年は国柱会の熱心な信者だったようです。
樗牛は日蓮に関する随筆を次々に発表し、国柱会の宣伝をしました。
ところが、芸者遊びの最中に、芸者が清水の方言で「きゃあるがなくんてあめずらよ。」と言ったのです。標準語に直すと『カエルがなくので雨が降りそうだ。』となるのですが、白秋はこの方言がいたく気に入り、『ちゃっきり節』の歌詞を創作したのです。
この『ちゃっきり節』は、昭和2年(1927)に地元芸妓衆の歌・踊りによって発表されたのですが、当初は全くヒットしなかたのです。ところが、芸妓から歌手に転身した市丸が昭和6年(1931)にレコードに吹き込み、その後、大ヒットしたのです。
なお、市丸はレコード化する際に「啼くんで」と標準語で歌ったのですが、清水の正しい方言は『啼くんて』と濁音ではありません。清水の皆さんは気を付けてください。
さて、白秋と国柱会とはどんな関係だったのでしょうか?
白秋は、大正13年(1924)に智學の招きで、両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに国柱会・最勝閣を訪れております。その時、白秋は三保の最勝閣を詠じた長歌・反歌そして短歌も残しております。
白秋が国柱会に入っていたとか日蓮信仰をもっていたということはないと思います。しかし、「両親は歓喜した。」との記載もあり、もしかしたら両親は信仰していたかもしれません。
なお、国柱会の資料によると、白秋は、智学の門下生とは学友で、白秋の菊子夫人は、白秋と結婚前、智学に仕えていたとあります。
いずれにせよ、白秋と国柱会との関係は深かったようです。
また、この当時の国柱会には、高知・佐川の出身で最後の勤王志士といわれた田中光顕をはじめ、多くの政財界人が出入りしておりました。静岡電鉄は白秋が国柱会の最勝閣を訪れたことが縁で、つきあったと思われます。その結果『ちゃっきり節』が生まれたのかもしれません。
8.ドイツ文学者・高山樗牛と国柱会
高山樗牛(1871~1902)はドイツ文学者として有名です。日本主義、ロマン主義、ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷が激しいのが特徴ですが、晩年は国柱会の熱心な信者だったようです。
樗牛は日蓮に関する随筆を次々に発表し、国柱会の宣伝をしました。

樗牛は、最勝閣が良く見える龍華寺の丘の上に、自身の墓を希望しました。樗牛の墓は真柏(しんはく)の木でできており、今では、パワースポットとしても知られております。また、芥川龍之介が「非常に悪趣味」と評した樗牛の銅像もあります。
ついでに説明しますと、樗牛の墓のそばには『恋塚』があります。これは、樗牛の『滝口入道』の悲恋小説に基づくもので、今でも手を合わせているカップルがいるそうです。
さらにつけ加えますと、この龍華寺には清水駅前銀座商店街出身の元厚生大臣・望月義夫君のお墓もあります。義夫君と私は、小、中、高、予備校まで一緒でした。
さらにつけ加えますと、この龍華寺には清水駅前銀座商店街出身の元厚生大臣・望月義夫君のお墓もあります。義夫君と私は、小、中、高、予備校まで一緒でした。

9.関東軍作戦参謀・石原莞爾と国柱会
昭和6年(1931)9月18日深夜、満州事変の発端となる柳条湖鉄道爆破事件により、暗黒の昭和史が幕を開きます。
この事件の立案者が関東軍作戦参謀の石原莞爾(かんじ)中佐で、実行者が関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐であります。
今でも、柳条湖事件の記念館には、首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されております。
この事件の立案者が関東軍作戦参謀の石原莞爾(かんじ)中佐で、実行者が関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐であります。
今でも、柳条湖事件の記念館には、首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されております。
この当時、関東軍は南満州鉄道を直接攻撃された場合にしか、軍事行動を起こすことは認められていなかったのです。このため、鉄道爆破をでっちあげ、軍を動かしたのであります。これが、満州事変の発端で、日本は中国との事実上の戦争状態に入ったのです。
関東軍の勝手な行動は事後承認され、結局、満州全域を日本は占拠してしまいます。さらに、清朝の廃帝溥儀(ふぎ)をかつぎ出し、新国家『満州国』を建国してしまうのです。その後の日本は、日華事変(日中戦争)から大東亜戦争(第二次世界大戦)へと、戦争への道を転げ落ちていくのです。
この満州事変の発案者、石原莞爾(1889―1849)は、熱狂的な日蓮主義・国柱会の教徒だったのです。
関東軍の勝手な行動は事後承認され、結局、満州全域を日本は占拠してしまいます。さらに、清朝の廃帝溥儀(ふぎ)をかつぎ出し、新国家『満州国』を建国してしまうのです。その後の日本は、日華事変(日中戦争)から大東亜戦争(第二次世界大戦)へと、戦争への道を転げ落ちていくのです。
この満州事変の発案者、石原莞爾(1889―1849)は、熱狂的な日蓮主義・国柱会の教徒だったのです。

右の写真は、満州国建国の会議の時に撮られた写真です。見てください。石原莞爾は、この国際会議に、『南無妙法蓮華経』の七文字が記載された『のぼり旗』を持って参加したのです。
まさに狂信的な信者なのです。
まさに狂信的な信者なのです。
石原莞爾の考えは、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していきます。さらに、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための前段階とも考えていたようです。
満州事変を勝手に計画した石原莞爾ですが、その後の日華事変やアメリカとの戦争は反対だったようです。まだ、その時ではないと考えていたのです。この結果、石原莞爾は東条英機と対立しました。
終戦後、極東国際軍事裁判においては、石原莞爾は戦犯の指名から外れました。これは、東条英機との対立が有利に働いたからだ言われたこともありました。
しかし、実際には、検事団の単なる手違いだったようで、あわてた検事団は、入院中の石原莞爾に面接したします。ところが、石原が「重態」のため調書が作れず、最終的に被告リストから外されたそうです。
その後、石原莞爾は、一切の政治活動から身を引き、故郷である山形県酒田市で農業を営みながら過ごし、そして、昭和24年(1949)の春に 病死いたします。
満州事変を勝手に計画した石原莞爾ですが、その後の日華事変やアメリカとの戦争は反対だったようです。まだ、その時ではないと考えていたのです。この結果、石原莞爾は東条英機と対立しました。
終戦後、極東国際軍事裁判においては、石原莞爾は戦犯の指名から外れました。これは、東条英機との対立が有利に働いたからだ言われたこともありました。
しかし、実際には、検事団の単なる手違いだったようで、あわてた検事団は、入院中の石原莞爾に面接したします。ところが、石原が「重態」のため調書が作れず、最終的に被告リストから外されたそうです。
その後、石原莞爾は、一切の政治活動から身を引き、故郷である山形県酒田市で農業を営みながら過ごし、そして、昭和24年(1949)の春に 病死いたします。

10.血盟団・井上日召と国柱会
満州事変の翌年の昭和7年(1932)2月9日、前大蔵大臣の井上準之助が暗殺されます。さらに、その年の3月5日には、三井の総帥・団琢磨が暗殺されます。捜査の結果、井上日召以下14名が逮捕されます。
俗に言う『血盟団事件』であります。この団体は、『一人一殺』を実行し、続いて海軍が決起する決起するという計画を持っていたのです。
この首謀者こそが、井上日召なのであります。井上の思想は、田中智学が創始した日蓮主義を基本として、皇国思想・国家改造に対する熱望により、井上が独自に思想形成したものであります。
その後、井上は海軍過激派達とつきあいます。その後の井上の興味の中心は実力行動だけとなり、国家改造のための暗殺を計画したのです。
さて、血盟団事件で逮捕された井上は、無期懲役となりますが、たびたびの減刑・恩赦で、昭和15年(1940)には、出所し、戦後には右翼団体を結成し、昭和42年(1967)まで生きていたのです。国柱会100年史には、智學の影響を受けたと思われる井上日召のことはなにも書かれておりませんでした。
次に、その年(1932)の5月15日、血盟団事件の第二弾が起きます。海軍過激派と血盟団残党が、首相官邸をはじめ内大臣邸、三菱 銀行、日本銀行、政友会本部、警視庁などを襲撃した五・一五事件です。この事件では、犬養毅首相が暗殺され、政党政治は終りを告げることになります。また、五・一五事件の裁判では、100万を超える減刑嘆願書が寄せられ、五・一五事件を起こした軍人らの処罰は異常なまでに軽かったのです。
この首謀者こそが、井上日召なのであります。井上の思想は、田中智学が創始した日蓮主義を基本として、皇国思想・国家改造に対する熱望により、井上が独自に思想形成したものであります。
その後、井上は海軍過激派達とつきあいます。その後の井上の興味の中心は実力行動だけとなり、国家改造のための暗殺を計画したのです。
さて、血盟団事件で逮捕された井上は、無期懲役となりますが、たびたびの減刑・恩赦で、昭和15年(1940)には、出所し、戦後には右翼団体を結成し、昭和42年(1967)まで生きていたのです。国柱会100年史には、智學の影響を受けたと思われる井上日召のことはなにも書かれておりませんでした。
次に、その年(1932)の5月15日、血盟団事件の第二弾が起きます。海軍過激派と血盟団残党が、首相官邸をはじめ内大臣邸、三菱 銀行、日本銀行、政友会本部、警視庁などを襲撃した五・一五事件です。この事件では、犬養毅首相が暗殺され、政党政治は終りを告げることになります。また、五・一五事件の裁判では、100万を超える減刑嘆願書が寄せられ、五・一五事件を起こした軍人らの処罰は異常なまでに軽かったのです。

11. 二・二六事件の理論的指導者・北一輝と国柱会
昭和11年(1936)の2月26日、陸軍の青年将校に率いられた1500人ほどの部隊が、天皇の側近や大臣を次々と殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠する事件が起きました。有名な二・二六事件です。
将校たちは、軍主導の国家改造を求めましたが、昭和天皇の怒りを買い、3日後に拘束されました。のちの裁判(軍法会議)で、17人に死刑の判決が下されました。
この事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死したのが、北一輝(きたいっき)です。
一輝は、明治16年(1883)の佐渡の生まれです。佐渡は、日蓮が流刑された聖地であり、一輝は、幼少期より法華経をそらんじていました。
一輝は、田中智學と同様の狂信的な日蓮教徒であります。また、両者ともに国粋主義者として有名です。
ところが、一輝と智學の思想は随分違っております。智學は『八紘一宇』に代表されるように、天皇が中心の国体の護持に力を入れております。一方の一輝は、国粋主義者とも言われておりますが、社会主義者とも言われております。
一輝は、明治39年(1906)の23歳の時、『国体論及び純正社会主義』を書きます。この中で、「ヨーロッパの革命では民主主義革命が行われたが、明治維新では民主主義が中途半端に終わった」とか、「『天皇の国民(臣民)』ではなく、『国民の天皇』となるべき」と主張したのです。そして、河上肇、片山潜などの社会主義者から絶賛されたのです。
次に、大正8年(1919)に『国家改造案原理大綱』を書き、大正12年(1923)に加筆修正して『日本改造法案大綱』が出版されます。
この『国家改造法案大綱』の具体的内容ですが、天皇親政、華族制度の廃止、普通選挙の徹底、国民の自由、私有財産を300万円を限度として否定、などの民主独裁国家の樹立であります。
この当時の日本は、貧富の差が大きく、農村も窮乏もして、世の中に不満を持っている人が大勢いたのです。一輝は、天皇陛下を取り囲む支配階級の腐敗が原因と考え、軍人による国家改造が必要と論じたのです。この『国家改造法案大綱』は一部の陸海軍将校の聖典ともいわれ、一輝は、一部の陸海軍将校に熱烈に支持されたのです。
昭和11年(1936)の2月26日、陸軍の青年将校に率いられた1500人ほどの部隊が、天皇の側近や大臣を次々と殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠する事件が起きました。有名な二・二六事件です。
将校たちは、軍主導の国家改造を求めましたが、昭和天皇の怒りを買い、3日後に拘束されました。のちの裁判(軍法会議)で、17人に死刑の判決が下されました。
この事件は、一輝を支持する過激な軍人が、国家改造を目指した事件です。北一輝は二・二六事件の指導者として、民間人としてただ一人逮捕されたのであります。
逮捕された一輝ですが、二・二六事件後の軍法会議の裁判長は「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べております。
一輝は、日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたそうです。裁判では、青年将校たちの決起について自分は関係がないと主張しましたが、同時に、青年将校たちに与えた自らの思想的影響を考えて、素直に死刑判決を受け入れたのです。
この事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死したのが、北一輝(きたいっき)です。
一輝は、明治16年(1883)の佐渡の生まれです。佐渡は、日蓮が流刑された聖地であり、一輝は、幼少期より法華経をそらんじていました。
一輝は、田中智學と同様の狂信的な日蓮教徒であります。また、両者ともに国粋主義者として有名です。
ところが、一輝と智學の思想は随分違っております。智學は『八紘一宇』に代表されるように、天皇が中心の国体の護持に力を入れております。一方の一輝は、国粋主義者とも言われておりますが、社会主義者とも言われております。
一輝は、明治39年(1906)の23歳の時、『国体論及び純正社会主義』を書きます。この中で、「ヨーロッパの革命では民主主義革命が行われたが、明治維新では民主主義が中途半端に終わった」とか、「『天皇の国民(臣民)』ではなく、『国民の天皇』となるべき」と主張したのです。そして、河上肇、片山潜などの社会主義者から絶賛されたのです。
次に、大正8年(1919)に『国家改造案原理大綱』を書き、大正12年(1923)に加筆修正して『日本改造法案大綱』が出版されます。
この『国家改造法案大綱』の具体的内容ですが、天皇親政、華族制度の廃止、普通選挙の徹底、国民の自由、私有財産を300万円を限度として否定、などの民主独裁国家の樹立であります。
この当時の日本は、貧富の差が大きく、農村も窮乏もして、世の中に不満を持っている人が大勢いたのです。一輝は、天皇陛下を取り囲む支配階級の腐敗が原因と考え、軍人による国家改造が必要と論じたのです。この『国家改造法案大綱』は一部の陸海軍将校の聖典ともいわれ、一輝は、一部の陸海軍将校に熱烈に支持されたのです。
昭和11年(1936)の2月26日、陸軍の青年将校に率いられた1500人ほどの部隊が、天皇の側近や大臣を次々と殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠する事件が起きました。有名な二・二六事件です。
将校たちは、軍主導の国家改造を求めましたが、昭和天皇の怒りを買い、3日後に拘束されました。のちの裁判(軍法会議)で、17人に死刑の判決が下されました。
この事件は、一輝を支持する過激な軍人が、国家改造を目指した事件です。北一輝は二・二六事件の指導者として、民間人としてただ一人逮捕されたのであります。
逮捕された一輝ですが、二・二六事件後の軍法会議の裁判長は「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べております。
一輝は、日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたそうです。裁判では、青年将校たちの決起について自分は関係がないと主張しましたが、同時に、青年将校たちに与えた自らの思想的影響を考えて、素直に死刑判決を受け入れたのです。

謎の多い北一輝ですが、今でもファンが多いようです。私は、子供の時に読んだマンガで、途中で連載ストップとなった手塚治の『一輝まんだら』の続きが、今でも読みたいと思っております。手塚治が二・二六事件をどのように扱うか興味があります。

国柱会の最勝閣が写っております。









