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5.国宝級の阿弥陀仏
(清水歴史探訪より)
井上馨の別荘、長者荘の跡地は静岡市埋蔵文化センターの敷地となっております。江浄寺の御本尊として信仰を集める阿弥陀如来像もこの地域の歴史を伝える貴重な文化財です。
 
 本堂にお邪魔しました。
「御本尊の阿弥陀如来ですね。木彫(もくちょう)、木で造っている寄木造というんですね。
 中は寄木造で、木で組んであるわけです。そして、木で組んだ形の上に今度は漆をかけるんです。何十回も何百回も。
 その漆の上から箔(はく)を押してあります。金泥(きんでい)っていうんですね。金と泥で。
 そして周りを金箔が、これよりももっと尊い金箔で造ってあるわけですね。
 そして来迎物(らいこうぶつ)、来迎相(らいこうそう)といってね、亡くなった方が極楽へ行くのをお迎えする御姿を取ってらっしゃる。
 
で、造られたのは平安時代後期から鎌倉初期だろうと言われます。
お腹の中は巻物が入っているわけです。この間からずっと調査を進めているんですけどもね、非常に大変な調査で様々なものが出てくるわけです。
木の札が出てきまして、安政の地震の時にこの阿弥陀さんが本堂の下敷きになってすぐ出たと。
それをその時の住職(安政の地震の時の住職)がね、京都の日本最高の仏師に依頼して、寄付を頂いて阿弥陀さまの修復工事を行ったということが木の札に掘ってある。
それを今引き続き調査をしておりますけれども。
その時(地震の時)に五体修繕したと。
そのうち、二体はフランスの美術館の方に行っていると。パリのギネ美術館だったかな、そちらの方にもあるそうです。
そこにね、安政地震でつぶれた日本の中の仏像を運んで修繕した。三体は日本にあると。そのうち三体の内一体がこの仏さんなんですよね。」
「では鎌倉・平安時代の記録がこの仏様の体内に入っていると。」
「そうです、またその他にも巻物があるんですよ。
 体内に入ってるのもあるし、それとは別に綸旨(りんし)、由緒書を書いた巻物の伝巻書(でんかんしょ)があるんですよ。
 それが物凄く量が多くて、静岡市の方の文化財課の応援を頼んで文化財課から時々来てもらってその文化資料を一枚一枚紐解いて調べてますね。
 徳川さんの資料もその中に入ってます。
 綸旨箱(りんしばこ)って言って巻物に葵の紋が浮かし彫りみたく出てくる箱があるんですよ。それは滅多に公開していないんですよね。その中に資料がたくさん入って載っております。
 今度は京都国立博物館から応援を頼んでね、調べましょうってなっていて、出来るだけのことはしてきたいなということでね、今考えてますね。
 大名行列の皆さん、本堂でお参りしてここの阿弥陀さんの前で法要(ほうよう)をやるわけですよ。
それから向こうの本堂の裏に御廟所(ごびょうしょ)があるから御廟所(ごびょうしょ)に向かってまた徳川さんにお参りしたわけですね
 旅人も、いや当時の旅行っていうのは大変なんですよ。ほんとに死ぬ覚悟で旅行するわけですね。途中で行き倒れになっちゃう人もいるわけですね。
 だからそういう人達も、行き倒れになった人達の為の供養塚も当時はあったみたいね。」
 
戦国の世に、あるいは武家の掟に、命をかけて家名を守り、そして散って行った若者たち。それを見守る江浄寺の阿弥陀如来は、故郷の歴史を、その体内に秘めていました。
 
お話は江浄寺住職の鶴谷俊昭さんでした。
 
清水歴史探訪
お相手は石井秀幸でした。この番組はJR清水駅近く、さつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。いそべ会計について、詳しくはHPをご覧ください。
阿弥陀様について
 
 阿弥陀様は極楽に住んでおり、亡くなった人を極楽浄土に導いてくれるそうです。だから、浄土宗のお寺には必ず阿弥陀様が祀ってあります。
 ところで、阿弥陀様は、かならず指で輪を作っております。従って、阿弥陀様を拝むとお金が儲かるのです??。
 また、阿弥陀様には、後光を意味する光背(こうはい)があります。浄土宗の阿弥陀様は、一般的に舟形光背(こうはい)の唐草模様だそうです。帽子を深くかぶることを『あみだかぶり』といいます。これは、ぼうしの縁が後光のようになるためです。
 
 浄土宗の親戚の浄土真宗は、四十八願(阿弥陀様が仏に成る前に立てた48の誓願)を示す48線の放射状光背(こうはい)が普通だそうです。放射状光背(こうはい)が、あみだくじの原型だそうです。
 さて、江浄寺にある平安末期の阿弥陀様、おそらく静岡県では一番古いのかもしれません。国宝級の価値がありそうです参考までに、本物の国宝の阿弥陀様と国宝級の江浄寺の阿弥陀様を並べてみました。
平等院阿弥陀(国宝)は、仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものです。
浄土宗の江浄寺阿弥陀仏(国宝級)は平安末期に造られたものです。
 
浄土真宗の阿弥陀仏の放射光背の線の数は一般に48本。
追記
 
清水の歴史から忘れられた深沢豊太郎元衆議院議員
 
 清水の衆議院議員といえば、望月義夫、倉田雅年、清水生まれではありませんが田村謙治、静岡市議会選挙に無所属で出馬するも落選した翌年、比例東海ブロック単独39位で初当選した小林 正枝(こばやし まさえ)などがあげられます。今日、紹介するのは戦前に活躍した衆議院議員の深沢豊太郎氏(以下、氏と記載します。)であります。
 氏は、現在、江浄寺に永眠されており、氏のことを詳しく知っているのは、江浄寺住職の鶴谷俊昭氏(以下、住職と記載します。)だけではないかと存じます。
 住職は、『季刊・清水』の第35号で『政客・深沢豊太郎伝』で、氏のことを詳細に説明しております。そこで、『季刊・清水』にもとずき、氏の解説を試みます。
1.明治28年(1895)5月、江尻鍛冶町に出生
 氏は、日清戦争の終了直後、江尻鍛冶町に出生した。幼少時代はかなり貧しかったようです。
2.大正4年(1915)、明治大学在学中に政友会に入党
 大正4年は第一次世界大戦の真っただ中であります。この年、氏は政友会(立憲政友会)に入党します。政友会は、明治33年(1900)に伊藤博文が創った政党として有名ですが、創立者の中には星亨、尾崎行雄、西園寺公望、原敬らもおります。氏は、原敬を崇拝していたようです。
3.大正11年(1922)、ドイツ、ベルリン大学留学
 大正11年は、10月にイタリアでムッソリーニ内閣が成立し、12月にはソビエト連邦が成立した年であります。留学先のドイツでは史上最悪のインフレの年でもあります。
4.大正12年(1923)、関東大震災のため帰国
5.大正15年(1926)、東京市議会議員に当選
 氏は、大正15年、32歳の時に東京市会議員に当選し、昭和18年まで東京市会議院を続けたようであります。
6.昭和5年(1930)、35歳で衆議院議院に当選
 氏は、昭和5年、清水市を選挙地盤として衆議院議員に当選します。以降、他界する昭和19年まで衆議院議員を続けたのです。なお、氏が当選した年の翌年昭和6年は満州事変が勃発しております。(この当時は、東京市議会議員と衆議院議員との兼務が可能だったのですね?)
7.昭和6年(1931)、農林大臣秘書官就任
 氏は、昭和6年の犬養内閣の時に、山本悌二郎農林大臣の秘書官に就任しております。私は、この秘書官という役職は政治家としては大した役職ではないと考えます。しかも、氏の肩書はこの秘書官という肩書以外見当たらないのです。当選5回の衆議院議員の履歴としてはあまりにも寂しい肩書ではないでしょうか?
 おそらく、氏は肩書にはこだわらない性格だったのではないのでしょうか?
8.親しい友人は、大野伴睦、河野一郎
 親しい友人としては、岐阜に新幹線岐阜羽島駅を誘致したことで有名な「政治は義理と人情」が信条の大野伴睦や政治家一家で有名な河野一郎がおります。特に、河野一郎には農林大臣秘書官の地位を譲り政治家としての地位を築くきっかけを作ったのであります。
9.私利私欲のない人物であった。
 氏は、私利私欲を持たない庶民のための政治家であり、港湾関係の整備や日本軽金属の誘致に多くの功績を遺したものの、中道で倒れたため清水市民にインパクトのある実績が残せませんでした。
10.最後に 
 氏は、住職の説明のとおり、郷土清水の発展を考えていた高潔な人格の政治家だったと思われます。惜しむらくは、①短命だったこと(享年51歳)②後継者の育成がなかったこと③大衆向けに本を書かなかったことなどがあげられます。もし長命ならば、大野伴睦や河野一郎と同様に戦後の日本で活躍したことは間違いありません。
 そして、残念ながら清水の歴史からは、完全に忘れられてしまった政治家となってしまいました。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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