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いそべ会計の地図
税理士法人いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 磯部和明
公認会計士・税理士
代表 森田行泰
税理士
1.各種税務相談・税務申告
2.会社設立・記帳業務
3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
3.明治の清水次郎長の功績
(清水歴史探訪より)
 舞台やスクリーンには登場しない明治の次郎長の功績とは、どんなものだったのでしょう。
 
「日本は明治になってから生糸とお茶が、日本の輸出産品の二大柱になりました。
 そのお茶の輸出に、次郎長は後半生を賭けたのです。静岡のお茶を輸出する、輸出先はアメリカです。輸出の80%ぐらい占めておりました。
 その頃、清水港はまだ開港場ではなかったのです。外国に輸出するには開港場である横浜を経なければならない。
 その為に、静岡のお茶は清水港から横浜港へ運ばなければなりませんでした。お茶は蒸気船で運ばなければならない。
 ちょうどその頃に、静岡丸とか清川丸とか、三保丸とかいう蒸気船が造られました。これらの蒸気船は200トン、300トンの中型でした。ただ、これまでの帆船とは違って、蒸気の力だったんです。
 静隆社(せいりゅうしゃ)という大きな船会社ができます。その船会社を作るために、次郎長は大変な努力をしました。
 静岡には茶町とかあります。ここでは今でも新茶の取れる時期は一晩中作業してますね。その静岡のお茶を集散する茶商、お茶の商人がおりました。
 それに清水港の廻船問屋がありました。清水港四十二軒の廻船問屋(かいせんどんや)がありまして、それは元和元年(1615年)に家康が作ったものです。
 静岡の茶商、横浜の商人達、清水港の廻船問屋の人達、その三者を口説いて、株式会社ができたのです。
 資本金は、三万五千円、今でいえば何百億という静隆社(せいりゅうしゃ)という船会社ができたのです。
 次郎長は影の人物で、株主の名簿にも名前を出しておりません。しかし、次郎長が作ったようなものなんです。
 明治33年、次郎長が亡くなってから数年後に開港場になりました。そして清水港から直接輸出することもできるようになりました。
 そうするとすぐに清水港は全国一のお茶の港になりました。それのレールを敷いたのが次郎長であります。コーディネーター、影の功労者です。」
 
 
 早くも海外に目を向けていた次郎長は、英語の重要性にも気づいていたようです。
次郎長翁の開いた英語塾の再現。
明治の頃の英語の教科書。
「よく、次郎長は英語塾をやったんですか、と色々聞かれることがあります。一番多い質問です。
 ところが、ここでやりましたよという裏付けが一つもないのです。
 状況証拠としては、例えば、新定院(しんじょういん)というお寺がこの梅蔭寺からすぐ近くにありまして、その寺男が次郎長の子分だったらしいです。
 そしてその寺男が、『俺は浜のおやじ(次郎長)の所で英語を覚えた』と。
 ボイラン、ガルラン、ボイランというのはガキっこ走るずら、ガルランとはあまっこ走るずら、という言葉を残しているんです。
 当時はまだ、オランダ語とかフランス語とかあったわけですね。そういう時代に英語でなきゃだめだというような、先見性があったのですね。
 そしてちゃんとした外人の講師を連れてきて教えたんだと思います。推定ですがね。
 静岡の中では学問上はそういう所のインターンと言うのかな、静岡学問所というのは、今でいえば東京大学をそのまま持ってきたようなものです。
 最先端の英語の先進県だったわけですね。静岡清水は。
 そしてその次郎長の所で英語を習って、アメリカへ渡ったという川口源吉という人がおります。三保の村史(そんし)にも書かれております。
 川口源吉という三保の青年は、横浜からお茶の輸出船に紛れ込んで、ハワイに行きました。そして成功して明治20年ごろに帰ってきました。
 帰国後、三保の村の者に成功談を聞かせたそうです。その川口源吉さんは次郎長の所で習ったんです。」
 
 
 明治維新の動乱の中、世の為人の為にという次郎長の行動は、徐々に評価が高まっていったようです。
初めて、アメリカに行った『咸臨丸』が清水で官軍に襲われました。
『咸臨丸』の幕軍を手厚く葬った『壮士の墓』へ
『壮士の墓』です。
「明治元年に大量の数万人の幕臣と家族達が、江戸からこっちへ参りました。
 明治4年に廃藩置県になりますが、駿府藩70万石も江戸から来た人達で溢れました。江戸から来た人達は難民同様だったそうです。
 次郎長はその人たちを真っ先に救ったそうです。
 そして、その人たちとの交流が色んな面でありまして、駿府学問所が出来て、それが静岡学問所になったのです。
 当時の最高学府のレベルがそっくり静岡藩に来て、その人たちとの交流したり、英語塾をやったりしたのです。
 幕臣の中心人物である方たちが、次郎長というのはただの博徒(ばくと)じゃない、大変な人物であると証明しております。
 次郎長は、文字を読めないとか、ひらがなしか読めないか、と言われましたがそれは伝説の誤りであります。実際に、山岡鉄舟が次郎長に宛てた手紙では、全部ひらがなで書いた物もあります。
 しかし、本当は漢字でもすらすら読める、やはり次郎長はいわゆる博徒(ばくと)とは違う脳味噌、ブレーンを持ってたと思うんです。」
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