本文へ移動
3.武田信玄の第二次駿府占領と江尻城
第2次駿府占領~江尻城廃城
 
1.第2次駿府占領 

 永禄12年(1569年)10月、武田信玄は小田原の北条氏政を攻めたが、攻めあぐね、撤退することになった。ところが、関東から甲斐へ撤退する武田軍とそれを追撃する北条軍との戦いが、三増峠で起き、この戦いで武田軍は勝利した。

 こうして北条軍を抑えた信玄は、永禄12年(1569年)11月に駿河に侵攻して興津横山城、蒲原城などを落として駿府を占領した。永禄13年(1570年)1月には駿河西部に進出して花沢城と徳之一色城(後の田中城)を落として、駿河を完全に支配下に置いたのである。

  ところで、江尻城は、第一次駿府占領の永禄11年(1568年)12月には、馬場信春により縄張りが行われ、山県昌景(まさかげ)が初代の城主となる。しかし、翌永禄12年(1569年)4月に駿府撤退により徳川家康の支配下に置かれてしまったのである。永禄13年(1570年)の第二次駿府占領により、本格的に江尻城の築城が行われるが、この時の城主は、穴山信君(のぶきみと書いて「のぶただ」と読まれたようである)、穴山梅雪である。
 駿府城の築城は天正13年(1585年)であり、それまでは駿河の中心はこの江尻城であった。
武田軍
小田原城
三増峠の戦い跡
田中城跡
田中城復元模型
2・長篠の戦

 天正3年(1575年)5月21日三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で長篠の戦いが起きた。

 当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く壊滅。この結果、武田滅亡へと向かう。

 この戦いで、江尻城の築城主とされる馬場信春、戦死。「大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評された。

 また、江尻城最初の城主、山県昌景は、長篠の戦いでは撤退を進言したが容れられず、逆に「いくつになっても命は惜しいものらしい」と勝頼に皮肉られたという。

 昌景の最期は前田利家隊の銃弾に倒れた際、采配を咥えたままの壮絶なものだったそうで、長篠合戦屏風に、戦死した昌景の首級を家臣の志村光家が敵に奪われない様持ち去る描写がある。
 これに対して、江尻城の現城主の穴山梅雪は、信玄の死後は従兄弟で義弟の武田勝頼とは対立が絶えず、長篠の戦いの際には戦線を離脱する。
 
3.織田信長の甲斐侵攻
 
 穴山信君は、長篠の戦いで甲斐に向かって敗走した勝頼とは別行動をとって、駿河の江尻城に逃げ帰ると、出家して梅雪斎不白と号し隠居をしようとした。
 天正10年(1582年)、織田信長、徳川家康、北条氏政は、長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻を開始する。武田勝頼は、天目山で自刃して果てた。
 一方、穴山梅雪は武田氏に関係した重臣、将兵、領民にいたる者たちの存命と武田家の再興を図るため、江尻城にいて徳川・織田両氏との外交に務め、織田信長に黄金2千枚を贈り助命嘆願の裏工作を進めていた。そして、織田氏の甲斐侵攻に際しては、家康に随行して富士川沿いに甲斐へ侵攻し、勝頼が自刃ののち織田信忠に謁して家康とともに府中の治安にあたった。その後、諏訪において信長と謁見した梅雪は、旧領を安堵されるとともに甲斐武田氏の惣領の地位を認められたのである。  
4.本能寺の変と穴山梅雪の死 
 天正10年(1582年)6月2日、羽柴秀吉を救援しようとして出発した明智光秀は引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長を襲撃した『本能寺の変』が起きた。
 一方、穴山梅雪は同年5月家康に随行、信長に謁見する。本能寺の変が起こった6月2日には、堺を遊覧していた。穴山梅雪は、家康と別行動で急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されてしまう。(明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もある。)
5.江尻城の廃城
 穴山梅雪の死後、嫡男である穴山勝千代(武田信治)が城主となるが、天正15年(1587年)に急死。このため血統は断絶したが、穴山信君(=梅雪)が継承した甲斐武田氏の名跡は徳川家康の息子の武田信吉が継承した。以後、江尻城は徳川が引き継ぐが、慶長6年(1601年)に廃城になった。
 駿府城の築城が天正13年(1585年)であり、それまでは江尻城は、駿河の中心であった。

(清水歴史探訪より)

「実際にこの江尻城で戦闘が行われたということはあったのでしょうか?」

「それほどはないと思いますね。ただ、今川氏の応援を得た徳川家康に駿府を奪われたということがあります。その時に一旦小芝城(=江尻城)も奪われた。その後、再び武田氏が甲相駿三国(こうそうすんさんごく)の境にですね、人を集めて再度取り返したという話はありますね。」

「そうしますとその当時から様々な武将がこの地を求めていた場所なんですね。」

「そうですね、やはり清水という所はそういう所ではないでしょうか。」

「信長の話がでてきまして、そして家康の話が出てきましたけれども。このお城というは時代によって色々変わってきたわけですか。」

「そうですね、早い時代に潰されていますのでね。ですから、それほどお城としては長続きしなかったのではないかと思いますね。」

「それでは一時的な戦闘基地として使われていたみたいな感じなのでしょうか。」

「そうですね、そういう風に考えるのが一番江尻城を考える時にいいんじゃないのでしょうか。」

「江尻城は最後はいつ頃まで存在していたんでしょうか?」

「天正10年頃にはまだあったんですね。天正10年以降に、潰されたと思いますね。」

「そうしますと、お城としての生涯は数十年」

「そうですね。」

「かなり濃密な歴史だったわけですね。」

「そうですね、梅雪(ばいせつ)が城主になったり。何人かが城主になっていますけれども。穴山梅雪が一番有名なので、そういう意味では梅雪のお城というのが一番ふさわしいのかもしれないですね。」

 

 馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)という人物は、武田氏の家臣で、織田信長と徳川家康の連合軍が武田軍を破った長篠の戦では、敗れて退却する武田軍の殿(しんがり)を務め、無事本体を逃がすことには成功しましたが、自身は奮戦空しく討死しています。

(人物)

 武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。また他の四天王が20代で100騎持ち、40代で300騎持ちなどに出世しているが、信春は44歳にしてようやく120騎持ちと出世は遅れている。

(逸話)

 永禄11年(1568年)の駿河国侵攻では先鋒を務めるが、その際に今川氏が収集した財宝・名物が焼失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示したことを知ると、すぐさま現場に駆けつけ「貪欲な武将として後世の物笑いになる」として、周囲の面々が止めるのも聞かずに財宝を再び火中に投げ込んだ。信玄はこれを知って、「さすが7歳年上だけある」と後世に名を惜しんだ信春の器量に恥じ入ったと言われている。

 

 また穴山梅雪は、名を信君(のぶきみ:本当は『のぶきみ』ではなく『のぶただ』と読まれた)と言い、武田信玄の姉を母に生まれ、武田氏の重臣として活躍した武将ですが、後に出家して梅雪(ばいせつ)と号しました。武田氏滅亡の時には、徳川家康を通じて、織田信長と手を結びましたが、本能寺の変の後、一揆に遭遇して命を落したと言われています。

(生涯)

 天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれる。穴山氏は「武田」姓を免許される御一門衆に属し、信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結び親族意識が高かったと考えられている。信友の頃には下山館を本拠に河内地方を領し、河内支配において武田氏による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていた。

(評価)

 信君は武田滅亡に際して武田家再興を名目に主家から離反しているが、同じく信玄の娘婿でありながら織田家に寝返った木曾義昌や郡内領主の小山田信茂らと共に主家から離反した行動に関して、これを謀反とする否定的評価がある一方で、佐藤八郎など家名存続のため敢えて背いた情勢判断を正当視する好意的評価もある。

さて、江尻城と深いかかわりを持つと言われている小芝神社ですが、一体どんな関係があったのでしょうか。

 

「この神社は、その江尻城があった時代、どういう場所にあったのでしょうか。」

「三の丸ですね。三の丸の中に元々鎮座されていたお社(やしろ)があって、そこにお参りに武将たちが来たというわけですね。」

「そうしますとお城の中にあった神社ということですね。」

「そうですね、一応お城の中ですね。」

「江尻城の中では、この小芝神社というのはどんな位置づけになっていたのでしょうか?」

「やはり武運長久。ということがメインで、やっぱり戦いの時代ですから。やっぱり八幡宮様は、八幡様、八幡大菩薩ということであったんではなかろうかと思いますね。元々あったんですけれども、この江尻城が出来てからなおさら崇敬(すうけい)が厚くなったと思いますね。」

4
7
4
0
5
2
税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
TOPへ戻る