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2.海長寺の葵の御紋

「さて、古い歴史のあるこの海長寺さんなんですけれども、このお寺に伝わってるいろいろな歴史的なものがあるかと思いますが、どんなものがあるのでしょうか。」

椿の御朱印--------------------(日蓮宗:中部宗務所の㏋より)
  天正十年(1582) 十二月、十二世日応上人の代に、徳川家康が甲斐の武田を攻略した折、敵の残徒今福丹波守の追撃を避け当山へ逃げ込み、椿樹の蔭に隠れて一命を助かったことがある。今福主従は貫首と押問答の末、遂に発見できなかった責を負い自刃したので、杉原山堤畔に小堂を造り主従七名の霊を慰めたという。これより徳川家との縁故が深く、天正十七年(1589) には境内禁制の札、慶長七年(1602) には朱印下附などの恩恵があり、「椿の御朱印」と称してこれを言い伝えた。因って当寺の定紋は三ツ葉葵である。
 (清水歴史探訪より)
 「まずみなさんが気になるのは、どうして海長寺が葵の御紋を使ってるのか、というところだという風に思いますけれども、家康公が海長寺に寄ったいわれがあるからです。

 天正十年(一五八二)十二月、十二世日応上人の代に、徳川家康が甲斐の武田を攻略した折、敵の残徒今福丹波守の追撃を避け当山へ逃げ込み、椿樹の蔭に隠れて一命を助かったという風に言われております。 

 そのときの御恩を家康が天下統一した後に感謝をされて、そして当山に六石の御朱印と葵の御紋を使う認可をされたという風に伝えられています。」
^^^^^北の政所の黒印状

朱印下附

朱印地について

 朱印地(しゅいんち)および黒印地(こくいんち)とは、江戸時代に幕府・大名より神社・寺院の領地(寺社領)として安堵(領有権の承認・確認)された土地のことである。朱印領・黒印領ともいう。

 朱印地は幕府より朱色の印(朱印)が押された朱印状により、黒印地は大名より黒の印(黒印)が押された黒印状により所領の安堵がなされたことに由来する。

 

六石について

 一石は、一人が年間に食べるお米の量だから六人分のお米が採れる土地ということになる。一石採るのに一反必要で、六石は六反歩で、1800坪になる。

 

(清水歴史探訪より)

「葵の御紋があるというのは、これは特別に許されたものだったんですね。」

「当時としては、有力だったという風に思われます。この葵の御紋をもとに、海長寺も発展していったという風にも言われております。」

「この家康が逃げ込んだときなんですけれども、追いかけてきた武将との間に色々エピソードがあったそうですが。」

「武田軍の追ってきた武将、名前が今福丹波守(いまふくたんばのかみ)という武将だったんですけども、それが椿の群生に隠れている家康に気づかずに、当時の海上寺の住職に、『家康公が逃げ込んできたろう』ということを聞くんですけれども、時の住職はそれを『ここには来てないよ』ということで家康公を助ける、というエピソードがあります。」

「この追ってきたこの武将なんですけれども、その後どうなったんでしょう。」

 

 

「海長寺」から北の方に今福丹波守の子孫の家があります。

(清水歴史探訪より)

「そのときに追ってきたときには分からなかったけども、後々調べると、家康公が海上寺にいたという丹波守は責任をとって腹を切って自決した、という風に言われています。」

「やっぱり当時の戦国の世の中という感じがしますね。」

「そうだと思いますね、どれだけ自分が責任の重いことをしたのか、ということを痛感したんだという風に思います。」

「また、当時のご住職もなかなか胆の座った方でしたね。」

「そうですね、劣勢の家康を見てそれで助けるというのは、どういう思いがあってなのかはちょっと定かではないですけども、武田の軍勢から家康を助けたというのは、やっぱり勇気のいる行動だという風に思います。」

「さて、その後家康からは何か御礼のようなものがあったのでしょうか。」

「家康公が天下統一した後に、朱印の六石と海長寺に葵の御紋を使うということを認可をされて、下さりました。」

「その後もご縁が色々あったんですね。」

「そうですね、徳川家とは長い海長寺としてのお付き合いといいますか、そういうものがあります。」

 葵の御紋は、家康公を救ったご縁で特別に許されたものでした。

(杉原山虚空蔵堂の案内看板より)

 このあたりは杉原山と言います。今から約五百年前に創立された本能寺 村松一丁目のたきぎ取りのやまであり、当時は杉原山全体が同寺の飛地境内でありました。現在、この仏堂の境内は、六十六平米程であります。
 戦国時代、甲斐の武田信玄がまだ世に出なかった徳川家康を攻め、窮地に陥れました。その時、家康を追い詰めたのは信玄の家臣、今福丹波守主従七人であったといわれますが、ついに家康を探し出すことができず、ご主君に申し訳ないと、この地で無念の自害をしたと伝えられています。
 後に村人達は、この七人の悲運を哀れに思って「七代様」と呼んで供養してきました。
七代様を虚空蔵菩薩としてお祭りするようになったのは、今から二百年余り昔の明和八年(1771年)本能寺第十八世遠寿院日問上人の時からであります。

 

昭和六十年二月 不二見地区まちづくり推進委員会 清水市立第四中学校郷土研究部』 

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