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1.興津、龍津寺(りょうしんじ)を訪ねて
 龍津寺(りょうしんじ)を訪れるのは、今回が2回目となります。前回は、平成24年10月13日の放送の後に訪れましたが、時間の関係上、中に入ることができませんでした。その時の説明ですが、「このお寺は、香華寺(こうげじ)といって、お殿様が江戸にある歴代藩主のお墓にお参りするのが大変なので、ここでお花や線香をあげるためのお寺」とのことです。
 今回は、龍津寺にある須弥山儀という、仏教天文学の粋を集めた代物を拝見したく、龍津寺の檀家である私の事務所の職員とそのお母さんと一緒に、いつもの髙内さんと私が訪れました。
 

(清水歴史探訪より)

 

清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。

 

 清水区興津から山梨県の甲府へと抜ける、国道52号線。ひっきりなしに行き交う大型トラックの喧騒と、その狭間の小鳥のさえずりに包まれた、臨済宗妙心寺派の古刹、拈華山(ねんげさん)龍津寺(りょうしんじ)に、住職の勝野秀敏(しゅうびん)さんを訪ねました。

(清水歴史探訪より)

 

「創建は不詳ということで、はっきり分かっていないんですけれども、もともとは臨済宗の建長寺派のお寺だったと言われております。起こりとしてはですね、もともと『良心庵(りょうしんあん)・いおり』としてあったものをですね、今川義元の軍師であった、また徳川家康が興津の清見寺(せいけんじ)で幽閉されていたころの、竹千代と呼ばれていたころの教育係だった和尚様、太原雪斎(たいげんせっさい)長老という和尚さんがいらっしゃるんですけれども、その方がここの龍津寺(りょうしんじ)を復興させて下さったという風に言われております。」

 

 写真は、白隠禅師の描いた『太原雪斎』です。太原雪斎の死後、200年程経った1740~1750年頃、白隠さんが60歳頃の作品と言われ、龍津寺に保管されている極めて珍しい作品であります。

太原 雪斎明応5年(1496)-弘治元年(1555))

臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣 


 今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与。雪斎の死後、5年を経ずして義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死するが、もし雪斎が生きていたら今川家が衰退することはなく、義元が討死することはなかったとみる現代の歴史家・作家は非常に多い。

 


 父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族であり、母方の興津氏は興津横山城を本拠に水軍も率いていた。太原雪斎は、戦国最強の僧侶と言われている。 

(清水歴史探訪より)

「もともとは、『心を終わる』、完了の『了』に『心』と書いて『了心庵』といわれていた時代もありました。また、『良く信じる』と書かれた時代もありました。今の『龍津寺(りょうしんじ)』という名前はですね、『龍(りゅう)、雲津(うんしん)に昇る』と、『龍が雲がはためいているところの際(きわ)を昇っていく様』、めでたい言葉としてですね、それをいただいて『龍津寺(りょうしんじ)』という風に言われております。」

 

「山門(さんもん)のところには、拈華山(ねんげさん)という、珊瑚(さんご)の額が飾っております。お寺は必ず、『何とか山 何とか寺(じ)』という風にいうんですけれども、ここのお寺ですね『拈華山(ねんげさん)』と言います。」

「年代はいつ頃のことなんですか。」

「今から270年ほど前の出来事になります。この山門自体は、もう少し時代が前となりまして、300年ほど前の山門となります。」

「では、その山門をくぐって、本堂までちょっと細長い道になっていますね。」

「はい。」

山門の上の『拈華山(ねんげさん)』の額(白隠禅寺の落款)
山門から本堂へ
本堂

 (清水歴史探訪より)

「ここのお寺はですね、小島藩(おじまはん)という藩の場所でもあるんですけれども、東海道とそこから甲斐の国ですね、甲州とを結ぶ身延路(みのぶじ)の一番狭まったところになります。ですから、恐らく山梨側のですね、動きを察する、関所のような役割を果たしていたのではないかな、と思います。」

「はい。当時は、軍事上も重要な場所でもあったわけですか。」

「はい。駿府城がありますので、本来は大名を置く必要がない場所になるんですけれども、この静岡県の中・東部の中では唯一ここに大名、小島藩というものが置かれていた場所になります。ここの龍津寺(りょうしんじ)というお寺は、その小島藩の藩主、瀧脇(たきわき)松平家の香華所(こうげしょ)いう言い方をします。」

 

「もともとお殿さんはですね、千葉の方なので、東京に菩提寺がございます。ですけれども、年の半分はこちらにいなければいけない、『近くでお参りする場所が欲しいよ』ということで、こちらのお寺を庇護してくださったという風に聞いております。」

(清水歴史探訪より)

「そうしますと、お殿様のお墓もあったりするわけですか。」

「そうですね。菩提寺は東京なので、ほとんどのお殿様は東京の方に祀られているんですけれども、ドラマがありました。3代目のお殿様、瀧脇松平昌信(しげのぶ)公という方、この方だけは、深く禅宗に帰依(きえ)されてですね、こちらのお寺にお墓がございます。小島藩というのは、大変貧乏なといいますか、経営・財政的には大変な藩だったんですけれども、飢饉もございました。その時にですね、実は百姓一揆もあったんですけれども、最終的にそのお殿様は処罰をしなかったという、大変人徳のあるお殿様だろうと思います。」

「はい。では、本殿のほうに。」

「はい。」

小島藩(おじまはん)

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

 

 駿河(するが)国庵原(いはら)郡小島村(現在の静岡市清水(しみず)区小島本町)に陣屋を置く譜代(ふだい)藩。1万石。藩主は松平(滝脇)氏。旗本松平重信(しげのぶ)(高槻(たかつき)藩主松平家信の二男)の後を継いだ信孝(のぶなり)(高槻藩主松平典信(のりのぶ)の弟)は、御小姓番頭(おこしょうばんがしら)、書院番頭を経て将軍徳川綱吉(つなよし)の側近となり、1689年(元禄2)若年寄に進み大名に取り立てられた。1698年上野(こうずけ)・武蔵(むさし)両国の領地を駿河国に移され、駿府(すんぷ)(静岡県)で立藩、阿部入(あべのや)(安倍谷)藩といわれた。1704年(宝永1)信治のとき陣屋を小島に移し、以来小島藩といい、1868年(明治1)の静岡(駿府)藩の成立により上総(かずさ)(千葉県)桜井に転封されるまで続く。 

 小藩であったから財政運営には特色があり、年貢収奪強化の目的で実施した「生籾(なまもみ)五分摺()り法」は領内全藩一揆(いっき)によってあえなく失敗、また財政赤字を少なくする目的で百姓を登用した譜代足軽(あしがる)制(郷足軽)や足軽仲間(ちゅうげん)制の採用は、身分制を否定するものである。また黄表紙(きびょうし)作家恋川春町(こいかわはるまち)(倉橋格(くらはしかく))は小島藩江戸詰の家臣で、乏しい扶持米(ふちまい)を余業で補ったという。小藩家臣団の見逃すことのできない一つの態様である。[若林淳之]
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