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1.侠客・清水次郎長について

 清水というと今では『ちびまる子ちゃん』とか『サッカー』とかいう人がおりますが、つい最近までは、圧倒的に『清水次郎長』が有名でした。

 この清水次郎長が有名になったのは、第一に天田愚庵の書いた『東海遊侠伝』のお蔭であります。次に『次郎長伯山』の異名を取る三代目神田伯山の講談『清水次郎長伝(名も高き富士の山本)』、そして浪曲師二代目広沢虎造の『清水次郎長伝』と続き、映画となり、さらには村上元三(げんぞう)の小説『次郎長三国志』によって娯楽のための『次郎長物語』ができあがります。

 この娯楽のための次郎長物語は、真の次郎長像とは違いますが実に面白いです。村上元三の『次郎長三国志』をもとに、次郎長はテレビ映画となり、だれでも知っている清水次郎長物語が誕生いたします。もっとも、今ではすっかりマイナーになり、我々清水の人間からも清水次郎長は忘れられようとしております。

天田愚案の東海遊侠伝

 

『東海遊侠伝』(とうかいゆうきょうでん)は、清水次郎長を主人公とする山本鉄眉こと山本五郎による伝記であります。著者の山本鉄眉、山本五郎は天田愚庵(1854 - 1904年)として知られており、清水次郎長の懇請と山岡鉄舟の勧めで次郎長(山本長五郎)の養子となり、1884年(明治17年)2月、次郎長が収監された際に、嘆願書として同年4月に出版したのが同書であります。その目的上、次郎長の功績への称賛するに終始した内容となっております

 

山本五郎は、次郎長の経営する富士山裾野の開墾事業の監督を務めるなど尽力するも、事業は不振を極めて閉鎖、次郎長の養子を辞し、旧姓天田に復すと共に出家。

天田愚案は、漢詩や和歌に優れ、一時期写真家でもあった。著書に『東海遊侠伝』(1884年刊行)、『巡礼日記』(1894年刊行)、『愚庵全集』(1928年刊)などがあります

 

東海遊侠伝の初版の題名は『東海遊俠傳 一名次郎長物語』であります。

神田伯山の清水次郎長伝
 

 3代目神田伯山は、本名を岸田 福松(きしだ ふくまつ)といい、東京生まれで、明治5年(1872)から 昭和7年(1932)まで生きた。

 講談師として、大きな人気を誇り、彼が出演する寄席は大入りの満員となった。そのため、その周辺(八丁)の寄席は皆、客を取られてしまうので「八丁荒し」の異名を取った。

 「清水次郎長伝」を最大の売り物とした。そのため三代目は「次郎長伯山」との異名がある。清水次郎長物の講談は、元々血生臭い話であった。3代目自身は、講釈師松廼家京伝から伝えられている。しかし3代目は、ストーリーそのものを変えた。天田愚庵の「東海遊侠伝」を参照する等して、義理人情を盛り込み、愛されるキャラクターの次郎長像を創作して独自の型として完成させたのである。「名も高き富士の山本」という演題とした。

 

 浪曲師の2代目広沢虎造の「清水次郎長伝」は、この伯山の演じた型をベースにしている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

二代目広沢虎造の『清水次郎長伝』
 
 広沢 虎造の持ちネタは、国定忠治、雷電爲右エ門、祐天吉松、寛永三馬術など多岐に渡るが、中でも人気を博したのが、講談師・3代目神田伯山の十八番を、追い掛け回して習得した『清水次郎長伝』であった。とりわけ森の石松を題材にした『石松三十石船』は人気が高く、「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」などのフレーズは、ラジオ放送の普及も相まって、国民的な流行語となった。虎造自身の声は小音で、マイクが無い時代に大きな会場だと後ろから「聞こえん!もっと大きな声を出せ!」とヤジが飛ぶほどであったが、ラジオやレコードの登場に助けられたのである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村上元三の次郎長三国志
 

 広沢の浪曲や、その他の資料伝説を元に執筆されたのが村上元三の小説『次郎長三国志』である。同作は、『オール讀物』(文藝春秋新社、現在の文藝春秋)誌上に1952年(昭和27年)6月号から1954年(昭和29年)4月号まで連載された。GHQ統治下においてチャンバラが禁制とされていたが、占領終結により解禁となった直後という時代背景もあって、読者の熱狂的な支持を受け、村上の代表作の一つとなった。

 


 しかし一方では、村上による次郎長一家の大胆な脚色が専門家からの「事実に悖る」という批判を蒙る事にもなった。また広沢の浪曲で馴染み深い「江戸っ子だってねぇ、寿司を食いねぇ」という石松の名場面も登場せず、創作としても一部から批判を受けた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マキノ雅弘監督の映画・次郎長三国志
 
 我々の清水次郎長像は、映画の『清水次郎長』である。その原点が、この『次郎長三国志』である
 

 シリーズ第一作『次郎長三國志 次郎長賣出す』、ならびに第二作『次郎長三国志 次郎長初旅』は195212月から19531月にかけて、年末・正月映画として封切られた。原作者の村上自身が脚色を務めた(松浦健郎との合筆)他、広沢虎造も出演を果たしている。チーフ助監督には岡本喜八郎(のちの岡本喜八)が付いた。

 次郎長最大の見せ場である『荒神山』を前後篇に分けて完結篇として製作される予定であったが、前半の『第九部 荒神山』を最後に『第十部 荒神山後篇』が製作されないまま、シリーズは未完となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

マキノ雅弘監督の おいである監督マキノ雅彦(俳優の津川雅彦)作品
清水次郎長の実像にせまる
 
 清水次郎長が、どういう人物かよく知るために、本を買ってみました。
①は、清水次郎長の養子となったことのある天田愚案の『東海遊侠伝』の研究書であります。後半の半分以上が、『東海遊侠伝』の復刻版であります。『東海遊侠伝』を研究するには必需品でありますが、素人の私には難しすぎて、パラパラと目を通してお終いにしました。
②は、①の作者と同じ高橋敏先生による本です。①と違ってかなり読みやすく、次郎長が生まれてから悪ガキだった時代~アウトローのだまし合いと殺戮の時代~明治になってからの次郎長と順に記載されております。内容は、『東海遊侠伝』を基に記載された歴史書という感じであります。
③と④は、歴史小説でかなり読みやすくおもしろそうです。私は、時間の関係で斜め読みの速読しかしておりませんが、内容は『東海遊侠伝』に忠実に書かれた小説のようであります。時間があればゆっくりと読んでみたいと思っております。
⑤は、清水次郎長の研究者として、清水区内で有名な田口英爾先生の書いた『清水次郎長と明治維新』であります。田口先生には、清水歴史探訪と歴史散策の第九話に登場して頂きました。残念ながら、その後先生は永眠されました。先生の肉声は清水歴史探訪の貴重な資料となっております。今回は、次郎長生家を訪れた後に、この『清水次郎長と明治維新』の解説を試みてみます。
 ⑥⑦は、戦後の次郎長映画ならびにテレビドラマの原型となる作品であります。事実とは少し外れているという批判もありますが、次郎長一家の面々が記載されております。清水次郎長の映画としての魅力は、次郎長だけではなく個性豊かな子分たちにあります。森の石松なんかは、清水次郎長よりも有名ではないかと思います。
⑧⑨は漫画家の黒鉄ヒロシ氏の作品であります。マンガなのですが、読んでみると実に詳しく事実を調査した後がうかがえます。東海遊侠伝とは違う見解を随所に記載しており、一読の価値があります。
 例えば、清水の追分で次郎長に殺された都田吉兵衛の話ですが、『東海遊侠伝』では、フグの毒にあたった次郎長を殺しに来た吉兵衛を追分の旅館にいるところを次郎長が襲ったことになっておりますが、『駿河遊侠伝』では、手打ちが済んだ次郎長にあいさつにきた吉兵衛に居留守を使った次郎長が、ゆっくりと旅館で酒を飲んでくつろいでいる吉兵衛を、次郎長が突然襲ったことになっているそうです。
 その他、『東海遊侠伝』の疑問を指摘してたり、「『東海遊侠伝』では普通の人相だった森の石松が、伯山の講談で片目となり、虎造の浪曲で『馬鹿は死ななきゃ治らない』と馬鹿にされ、村上元三の小説ではドモリにされてしまった」と解説しております。
 
 とりあえず、清水生まれの私としては『次郎長生家』を訪問の後、清水生まれの田口栄爾先生の『清水次郎長と明治維新』と、読むと次郎長が好きになるといわれる『次郎長三国志』の解説を試みたいと存じます。
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税理士法人森田いそべ会計
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TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
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社員 磯部和明
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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