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1.梶原等(かじわらひとし)著『梶原景時』の解説
梶 原 景 時
 
~知られざる鎌倉本體の武士~
梶原等(ひとし)著
 
はじめに~~梶原氏のルーツ的存在
 
 著者の梶原等さんにとって、『梶原景時』はあまり触れたくない人物だったようです。歴史上の『梶原景時』はすこぶる評判の悪い人間となっていて、源頼朝と義経の兄弟愛を裂いた人物、何人もの御家人を陥れた人物、最後は鎌倉を追放され、討死した人物で悪人の代表のような人物でした。
 ところで、梶原等さんの本職は弁護士で職業柄、事件の裏表・人物の裏表を見続けてきたのです。そこで、職業体験を活かして『梶原景時』を見つめなおしてみたいと思ったそうです。

第一章 知られざる梶山景時像の発見

 

 金刺盛澄(かなさしもろずみ)という人物がおります。この人物は、諏訪大社下社(しもしゃ)の神官で、景時のために『梶原塚』を建てたのです。著者はここで、讒言(ざんげん)の景時ではなく、人命救助の景時を発見したのであります。

 さらに調べていくと、本吉高衡(もとよしたかひら)の赦免上奏・渡辺番(わたなべつがふ)の赦免上奏・武藤資頼(むとうすけより)の赦免上奏・都筑経家(つづきつねいえ)の推挙・飯田次郎の上奏・供僧(ぐそう)助公の赦免上奏・皆河(みながわ)太郎の赦免上奏と数々の人助けをしているのでありました。著書には詳しいいきさつが記載されておりますので、ご興味のある方はご覧ください。

 金刺盛澄(かなさしもろずみ)
 金刺盛澄(かなさしもろずみ)の人物について、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 には、次のように記載されております
 当初は治承・寿永の乱での源義仲の挙兵に従ったが、御射山神事のため弟の光盛を留め置いて帰国した。平家の家人でもあったことから、義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられた。頼朝は盛澄を処刑しようとしていたが、盛澄が藤原秀郷流弓術を継承する名手であったことから、景時は盛澄の命を奪うのを惜しみ、頼朝に説得を重ねた末、せめて盛澄の弓の技量を見てから死罪にして欲しい、と請願する。

 盛澄は頼朝の基に参上し、鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を披露した。この時頼朝は盛澄が騎乗する馬としてわざと暴れ馬を与えた上、盛澄が指定された八つの的を射抜くと、射抜いた的の破片、さらに的を立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けてきたが、盛澄は見事に全て射抜いたため、赦免された。この時、景時が同じく捕縛された義仲の郎党達にも寛恕を施して欲しい、と頼朝に願い出て、その郎党達もまた助命されたという(「吾妻鏡」文治3年8月15日条)。

第二章 頼朝との信頼関係
 
 私は、梶原景時は単なる源頼朝の茶坊主とかスパイと考えておりました。しかし今では、梶原景時は源頼朝の分身的存在と思っております。
 景時と頼朝との信頼関係はどのようにして生まれたのでしょうか?
1.石橋山における頼朝救済
 頼朝は治承4年(1180)に石橋山で兵を挙げます。この石橋山の戦いに敗れた頼朝を救ったのが梶原景時なのです。梶原景時は平家側の人間ながら祖先が源氏に仕えたこともあり源頼朝に好意を持っていたのです。
2.景時の事務処理能力
 景時は、事務処理能力に優れており、頼朝に高く評価されておりました。
3.政治路線の一致
 著者は、東国の独立を目指す御家人集団と京都の朝廷との均衡を図ろうとした頼朝側との路線対立があったと指摘しております。景時は少なくとも頼朝と同じ政治路線であり、実行部隊の武将だったのです。路線の違う上総介広常(かずさのすけひろつね)の暗殺は、頼朝の意を組んだものだったのです。
4.和歌により交流
 当時の上層階級・政治家にとって和歌は、最低限必要な教養であり、景時・頼朝は共に歌人でもあったのです。

石橋山の戦いについて

 

 頼朝は旗揚げするにあたって、

 事前に相模の豪族三浦一族にも協力を取り付けておきました。

「三浦と合流なれば平家恐るるに足らず!」

しかしその日823日は…

 

~~ド ザ ー ー~~

 

あいにくのどしゃ降りでした。

 丸子川(現在の酒匂川)が氾濫し、三浦一族は足止めを食らっていました。

 

1180年(治承4年)823日 石橋山の合戦】

そこへ平家方の大庭景親三千騎が南下してきます。

頼朝は小田原の少し西、 海岸に近い石橋山に陣を取ります。 旗の先には以仁王の令旨をくくりつけてありました。

むかいあう両軍

頼朝軍300騎、大庭景親軍3000騎。 両軍は谷一つへだてて向かい合います。

南からは伊東祐親入道三百騎が北上してきます。 伊東祐親入道は頼朝にわが娘を寝取られたという話のある人物で、そのことの恨みもあったかもしれません。

頼朝軍は北と南からはさみ討ちにされてしまいました。

両軍は谷を隔てて向かい合っているので、先に攻撃を仕掛けるには まず敵前で谷を下り、さらに谷に上らないといけません。

とても危険です。101の戦力差といっても、どちらも容易には手を出せず、 嵐の中、にらみ合いが続いていました。

「むうー…三浦一族と合流さえできれば!」

その三浦一族は、丸子川(酒匂川)のほとりで足止めを食っていました。

「嵐が止まねばどうにもならぬ!」

三浦一族は川を渡れないもどかしさに郎党たちをつかわして、大庭景親の一党の宿所を焼き払います。その煙は雨の中もくもくと立ち上り、空を黒く覆いました。

石橋山で頼朝軍と向かい合っている大庭景親の本体からも、その煙が見えました。

「くうう…三浦の者どもめ」

そこで大庭景親は大英断を下します。

「嵐がやんで三浦一族と頼朝が合流してしまえば手遅れになる。今、一気にケリをつけるべきだ」

「かかれ!!」

嵐の中、大庭景親軍3000騎は谷を一気に駆け下り、ついで駆け上り、頼朝軍に襲いかかります。

佐奈田与一の奮戦

「いよいよか!」

つぶやいた頼朝の横から、「御曹司殿!ここはお任せくだされ!それがしが先陣をつとめまする!!」

「なにっ?」

バカカ、バカカ、バカカ

わずか十数騎を率いて頼朝の横を駆け下りていくのは、25歳の若武者佐奈田余一義忠です。

頼朝が声を飛ばします。

「余一、その装束は派手すぎる。 敵の標的になってしまうぞ!」

「なんの。弓矢取る者の晴れ舞台。 戦場に過ぎたることがございましょうか」

「…うむ。あっぱれな若武者ぶり。頼んだぞ」

佐奈田余一義忠は嵐の中、平家軍の中を むちゃくちゃに駆け抜け、あそこに一騎、こちらに一人、 切り伏せ、蹴飛ばし、八面六臂の活躍を見せます。

しかし平家方の俣野景久(またのかげひさ)と組合になり、 上になり、下になり、とうとう首掻っ切られてしまいます。

三千騎対三百騎。もとより多勢に無勢です。頼朝方は あちらに討たれこちらに討たれ、頼朝自身も嵐の中矢を放ち放ち後退していきますが、気が付くとわずかに主従七騎。

ぼろぼろになって引き退いていき、椙山方面に逃げ込みます。

 

しとどの窟

「探せ!遠くには行っていないぞ!」

頼朝一行は洞窟の中に身をひそめ、息を殺していました。

そこへ、平家方の武者が松明を持ってさがしに入ってきて、

「はっ!」「はっ!」

ばったり顔をあわせてしまいました。

「ぬぬぬ…」

刀に手をのばす頼朝。

「お待ちくだされ!……(キョロキョロ)お助けいたします」

 「何!」

 「あなたが天下を取ったあかつきには私のことをお忘れなきよう」

 「うむ…そなた、名は?」

「梶原景時と申します」

何食わぬ顔で洞窟を出た梶原景時。

「ここにはいない。他をさがせ」

そこへ大場景親が、「いない?本当にいないのか。この洞窟なんかは、隠れやすそうじゃないか。どれ、わしが探してみよう」

梶原ばっと前にへだたり、

「では大庭殿は、この梶原が嘘をついているとおっしゃいますか。それ以上進むと武士の名誉にかかわりますぞ」

こうして梶原景時は場を取りつくろい、頼朝を逃がしました。

 

 

 後に鎌倉幕府の御家人として、頼朝の懐刀として活躍した梶原景時。その出会いは湯河原しとどの窟において梶原が頼朝を助けたことにあるという一つの伝説です。

左大臣ドットコムより

 

第三章 義経問題の真相
 
 源義経と梶原景時の対立については、清水歴史散策Ⅱの『第十九話 梶原景時の眠る高源寺』で詳しく説明いたしました。義経失脚の原因である頼朝との不和の原因は、専ら梶原景時による義経讒言(ざんげん)であるとの解釈が一般的であります。讒言とは、『事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと』であります。
 しかし、著者はこの点について疑問を感じたのです。そして、まず梶原景時の源頼朝への報告書について検討したのです。その結果、梶原景時の報告書は讒言(ざんげん)ではなく事実であると結論づけたのです。
 さて、源頼朝と源義経は兄弟です。しかし、源頼朝は兄弟ではなく主従として源頼朝は見ていたのです。このことを、『義経の馬引き事件』を挙げて説明しております。
 頼朝との不和の原因は、主として、源頼朝の推挙もないのに勝手に官位を受けたことであり、梶原景時は体を張って義経に意見した忠義者と結論づけているのです。
第四章 義経以外の景時讒言例等の検証
 
 『吾妻鏡』によると梶原景時は源義経だけでなく、他の御家人を陥れた人物として記述されております。これらの事実について著者は一つ一つ検証し、①梶原景時の人間臭さを感じるとか、②梶原景時の職務上の具申だったとか、③頼朝の分身として行ったのではないか?とか弁護士らしく反論して、梶原景時は源頼朝の一番の忠僕として称賛しております。
梶原御霊神社
第五章 景時の出自
 
 景時の故郷は、相模国鎌倉郡梶原であります。現在の鎌倉市梶原よりも広い地域でありました。父は、景長とも景清ともいわれております。景時の家系図はいくつかあるようで、参考に下の2つの家系図を掲載しました。
 さすがに、この梶原地区には梶原氏ゆかりの供養塔・神社や塚がたくさんあります。特に、家系図の影正(=影政)・権五郎は神社(写真)もあります。
第六章 景時の鎌倉追放
 
 建久10年(1199)源頼朝が死亡します。その後、すぐに梶原景時は鎌倉追放となってしまいます。
 景時に反発する御家人66名による景時弾劾の連判状が頼家に提出されますが、頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下ってしまいます。
 謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救う事が出来ず、景時は鎌倉追放を申し渡されてしまいます。正治2年(1200年)失意の景時は一族を率いて京都を目指します。いわゆる梶原景時の変であります。
 著者は、この事件は北条時政の陰謀であり源頼朝も北条時政に暗殺された可能性もあると指摘しております。
 さて、梶原景時には最後の選択として市街戦や海路による西国入りなどが考えられますが、あえて景時親子は馬で西方へそれ以外の一族は諏訪へ向かうという選択をします。『景時は頼朝に殉死する気だったのではないか?』と著者は指摘しております。
第七章 景時終焉の地
 
 いよいよ『清水』の登場です。梶原景時が清見ヶ関(現在の清見寺)を通りかかった時、入江一族を中心とする地元の武士団に襲われます。地元武士団には、鎌倉から景時一族の殺害の命があらかじめ下っていたと思われます。
 清見ヶ関で襲われた一行は、狐ヶ崎(現在の静岡市曲金)まで逃げ延びますが、ここで待ち構えていた地元武士団に再び襲われます。そして、最後に夕日なし山と呼ばれた牛ヶ山の山頂で切腹したのであります。今では、切腹した場所は『梶原絶頂』と呼ばれ、牛ヶ山は梶原山と呼ばれております。
清見寺
狐ヶ崎(静岡市曲金)の馬頭観音
梶原絶頂
第八章 景時死亡後の余波
 
 梶原景時死亡後の余波は関係者の所領没収・逮捕・梟首(きょうしゅ:さらし首)から始まりました。しかし、途中からは北条氏による景時一族の供養が行われるようになります。著者は、北条一族の梶原景時一族に対するうしろめたさの表れと指摘しております。
第九章 鎌倉本體の武士
 
 梶原景時は、『鎌倉本體の武士』と称されました。この意味は、武士の中の武士、本物の武士といった意味があります。
 この章では、梶原景時がいかに『鎌倉本體の武士』の名前に相応しいか、鎌倉幕府における役割・梶原の二度駆け・義経との逆櫓論争などを通じて説明しております。
 さて、歌舞伎では『梶原平三誉石切(ほまれのいしきり)』という演目で梶原平三景時が正義の主人公として取り扱われております。

梶原平三誉石切 (ほまれのいしきり)

 


 通称「石切梶原(いしきりかじわら)」。時代物の典型的な役柄が一堂に揃う華やかな人気演目。平家打倒のために挙兵した源頼朝が、石橋山の戦いに敗れ姿をくらまし、再び挙兵して大庭兄弟を滅ぼすまでを描いた全五段の浄瑠璃『三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたずな)』の三段目が原作だが、現在ではここだけが独立して上演されている。


 


  演じる俳優によって『名橘誉石切(なもたちばなほまれのいしきり)』『梶原平三試名剣(かじわらへいぞうためしのわざもの)』など外題や演出が変わる場合もある。また「へいぞう」を「へいざ」と読むこともある。


 


  梶原景時は歴史的には源義経を讒言で窮地に追い込んだ悪人とされ、歌舞伎でも悪役として登場することがほとんどだが、この演目では主人公として見た目も美しい多くの見せ場がある。中でも「石切梶原」の通称が示すとおり、梶原が名刀の力も借りて石の手水鉢をみごと真っ二つに斬るクライマックスは最大の見せ場。

第十章 景時ゆかりの史跡
 
 全国には、梶原景時のゆかりの史跡があります。写真のみ紹介いたします。
鎌倉建長寺 梶原施餓鬼
東京 海晏寺(かいあんじ)梶原景時の墓
東京 梶原稲荷神社
東京 梶原氏創設の来福寺
東京 萬福寺 景時の墓
東京 萬福寺 磨墨(するすみ)の像
東京八王子 八幡神社 梶原杉
愛知県 犬山市 興禅寺 景時の供養塔
愛知県 犬山市  磨墨塚公園
第十一章 終章
 
 死んだはずの梶原景時の末子梶原景則が、甲斐の梶原の源流のようです。どうも梶原景時を襲った武士団の中に梶原景時に心をよせる飯田五郎が逃がしたのではないかと著者は考えているようです。
 著者の生まれた地・河口湖町には、『今諏訪神社』がありこの神社の家紋は梶原家の家紋と同じで、氏子は梶原の名字に限られているそうです。
 そして、今でも梶原姓は山梨県に多いそうです。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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