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 9.十二薬師の御詠歌並びに解説(1~4)

十二薬師の御詠歌・並に解説

 

一番 白華山禅叢寺(ぜんそうじ) 

 

臨済宗清見寺末 清水市上清水 折下

(清水区上清水町5−7)

 電話 054-352-6986

『むかしより詣る 道者はたえもなく

 まこと如来をおがむ みなもと』

 

「昔からおまいりする巡拝者は、たえることがない。ここが本当に薬師如来をおがむはじめの御寺である。」

 この薬師如来は、今は禅叢寺境内山門正面の薬師堂に祭られているが、明治維新前は禅叢寺の塔頭(たっちゅう)(注)法西寺の本尊であった。

 

(注)塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。

 

 法西寺は禅叢寺の扣(ひかえ:補助的なお寺)として門前にあり除地(じょち)(注)一反五畝十四歩を持っていた。

 

(注)江戸時代、領主により年貢免除の特権を与えられた土地。

 

 明治初年禅叢寺に合寺して本尊薬師如来を善叢寺に移した。一尺五寸の立像で天竺(インド?)伝来と伝えられている。

 禅叢寺は享禄4年(1531)岡部美濃守を開基(注)とし建長寺(鎌倉の大本山・巨福山建長寺と思われる)の雪心和尚を開山(注)として創建したと言われ、準開山(注)、九岩和尚(元禄十二年寂)は織田信長の三男神戸三七信孝の男、神戸飛騨守の子であると過去帳に誌されている。

 

(注)開基とは仏寺創建の際、財政的支持を行う世俗の人をいう。これに対して、開山とは寺院を開創した僧侶を指す。次に、準開山とは衰えた寺 を復興した僧を指す。

 

 開基岡部美濃守は岸和田藩主岡部氏の先祖で、岡部町の出身、当時この地方を領有していたらしい。この御寺には、有名な白隠和尚の名作「はまぐり観音」の図が藏されている。

 二番 端陽山東泉寺(とうせんじ)
 
 臨済宗清見寺末 入江岡
(清水区追分2-12-1)
電話 054-365-1665 

『たづねきて、きけばはるばる東泉寺

まいりてちかいるりのうてなに』

 

「どこにあるかと尋ねて聞けばはるばると遠い所にあるような名前の東泉寺だが、まいりて見れば薬師如来のおられる東方瑠璃光浄土の瑠璃のうてな(台)に一番近いような気がします。」

 東泉寺の本尊は薬師如来である。この寺の創建は天正年間(1573~1591)と言われ開山を樹岳宗白座元と言い天正以前からあった薬師堂を樹岳宗白座元が一寺として創建したらしい。開山は天正13年(1585)5月6日に寂した。境内に「縁結びの地蔵」と称する石内柱がある。正保2年(1645)の建立で正面に地蔵菩薩を刻し上部に竺石をのせたもので男性を象徴したものらしく、形状の奇を以て知られている。

円筒形の日金地蔵 

 日金地蔵は、本堂の前庭の、六地蔵尊と釈迦涅槃像の間の小さなお堂の中にある。高さ185cm、直径35cm程の円筒形で、その上に直径50cm程の傘を乗せている。そのため、かつては「傘地蔵」とも呼ばれていた。円筒部分の上部には、それぞれに円光を戴き、蓮台に乗った三体の地蔵尊の姿が線彫りで描かれている。また、下部にはこの地蔵尊が正保2年(1645)に、誰かの菩提を弔うために建てられたものであることが記されているが、摩滅と剥離のために判読が難しい。

 この地蔵尊の形状は、いわゆる「摩羅地蔵」と呼ばれるものである。「摩羅」とは梵語で悪魔のことで、修行中の釈尊を悩ませた欲望を意味している。とりわけ、この場合には性欲を表しており、摩羅地蔵の形は男根をかたどったものである。そのため、日金地蔵は縁結びの地蔵尊として信仰を集めるとともに、地蔵尊に触れば子宝に恵まれると言われていた。また、かつては性病の治癒に霊験があると言われたこともあるようである。

 

三番 瑞光山金剛法寺(こんごうほうじ)

 

 臨済宗清見寺末 清水市渋川

(清水区 渋川2丁目16-8)

電話 054-345-7079 

 

『あらとうと、金剛せんのるりのてら

まこと如来をおがむうれしさ』

 

「ほんとうに尊い金剛法寺御まいりして薬師如来の御姿をおがむことは大へんうれしいことでです。」

 金剛法寺の御本尊は薬師如来で、鎌倉時代応永頃(1394~1428)の作らしく佛師運慶(注)の作と伝えられている。身長2尺1寸3分木彫坐像・秘仏とされている。

 

注)あの有名な運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師であり、応永の頃よりも100年以上も前の仏師であります。したがってあの運慶の作とは信じがたいが、もし本当ならすごいですね。

  

 このお寺は元眞言宗で久能寺末鎌倉時代から栄えていた。文明13年(1468)久能寺涅槃画像の軸木に「渋川楊江山(瑞光山ではなく?)金剛法寺云々」と誌されている。

 開山智海和尚が天文年間(1532~1554)再建したが、永禄11年(1568)武田信玄駿河進入のとき兵火のため焼亡した。

 元禄年間(1688~1703)俊領西堂が中興し安永10年(1780)悦峰明適和尚本堂を再建した。

 本尊の薬師如来は天和4年(1684)と天明2年(1782)の2回に修理した記録が残っている。本堂に「重軽様」の像がある。叶う願ならば軽くなり、叶わぬ願のときは重くなると言う。

 

四番 日東山西照寺(さいしょうじ)

 

 曹洞宗楞厳院末 清水市北脇

(清水区北脇416)

電話 054-345-0777

『西てらす、みてらときけばありがたや

これが如来のたちどころかな』

 

「西を照らすと書く西照寺の名をきけば、西方浄土がしのばれてありがたい。この御寺こそ如来が居られて私達を御救いになる所であろう。」

 本尊薬師如来、開山陽月首座、創設文禄年中(1592~1595)と伝えられているが、開山の事跡は慶長18年(1613)9月16日寂と言うほか不明である。

 慶安3年(1650)8月楞厳院6世桑屋充暾和尚を中興開山とし瑠璃光山を改めて日東山とした。

 寛政年間(1789~1800)再中興蒼龍和尚、三州藤川在羽栗村・無量寺より来住し、堂宇(お堂の事)の再建に着手し、文化10年(1813)2月落成した。

 蒼龍和尚は文化3年(1816)5月4日寂した。この本堂は安政元年(1854)の地震で倒潰したので假堂を造った。昭和10年本堂再建、昭和42年更に改築した。 

北脇の西照寺について
 
 四番ヵ寺は北脇の西照寺。創建は文禄期(1592-95)。安政の大地震(1854)で本堂が倒壊し、仮の御堂を造ったあと、昭和に入って再建・改築されました。現在は住職が常駐しておらず、訪問時にも中に入れず、御堂の外で読経と御詠歌を捧げました。
駿河近郷十二薬師巡礼その1より
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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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■東海税理士会所属
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