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 1.清見寺と琉球使節の話
(清水歴史探訪より)

清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

 毎月第2土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
 
 旧東海道の要衝、清見ヶ関を起源とする古刹(こさつ)、清見寺(せいけんじ)。
 前回は清見ヶ関の痕跡や、朝鮮半島との交流の足跡(そくせき)を辿(たど)りましたが、清見寺には他にも様々な歴史の記録が残っています。
 今回も清見寺のボランティアガイドとして活動している、伏見鑛作(ふしみこうさく)さんにご案内いただきました。
大方丈
大方丈の内部
大方丈の真ん中に
 まずは、一般のお寺の本堂に当たる、方丈に残された琉球との交流の記録です。
 寛政2年(1790)の琉球使節正使、宜野湾 王子尚容(ぎのわん おおじしようよう、1765 - 1827)が、具志頭 王子尚宏(ぐしちゃん おおじしようこう、1578-1610)の供養のために清見寺へこの大型で見事な扁額『永世孝享』を奉納している。『永世孝享』とは、先祖の供養とはるかなる異国で客死した琉球王国の者が、大変お世話になり、これからも長くその供養をして頂く、お礼を込めたものであろう。
「ここに今大きな扁額があります。この扁額は琉球使節から頂いたものです。実は、琉球の方も朝鮮通信使と同じように、江戸の将軍様を訪ねて参府しています。
沖縄県史ビュジュワル版(沖縄教育委員会)の6~7ページを引用
 琉球使節っていうのは正確には寛永年間(1624~1644)にスタートします。
 経緯は、慶長14年(1609)に、琉球は島津藩に征服されてしまいました。その結果、その翌年の慶長15年、西暦1610年に、琉球の国王様と王子様と薩摩藩の武将が、『これからは、日本に従いますよ』ということで、江戸の将軍様に御挨拶に来たのです。
 
写真は、琉球使節の江戸参府(江戸上りと呼ばれた)
 
 その時の王子様、具志頭(ぐしちゃん)という名前がついた琉球の王子様、その方が長旅の疲れで駿府城下でお亡くなりになったんです。家康公に拝謁した後にです。
 それで、家康さんが気の毒だなってことで、この清見寺に埋葬することになったんです。ですから、この清見寺は、琉球使節にとってすごく大事なお寺ってことになります。
 琉球使節団、江戸城で御用が済んだ使節の方は、帰りに必ずこのお寺に寄って、お参りして行くというのが通例になってます。
この大きな扁額を頂いたのは寛政2年(1790)です。
 亡くなられた具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の直系に当たる宜野湾(ぎのわん)王子が、180年経つと最初に建てたお墓も傷んでしまいまして、傷んだお墓をこの方が立派な五輪塔(ごりんとう)に修復してくれました。
 
 
写真の右側後方のお墓が最初のお墓で、左前方のお墓が宜野湾(ぎのわん)が建てたもの
    開山 蛸和尚の墓(中央)
 
 琉球の王子の墓の途中に、歴代の住職の墓があります。その中で一番古いお墓について、スタットラーの『東海道の宿』に説明がありましたので紹介いたします。
 
 
清見寺縁起
 広重が寺の縁起を尋ねると僧は優しく微笑みながら、「では縁起物語をいたしますが、お信じなさるとなさらないは御勝手です」と前置きして語り出した。
 「弘長2年(1262年)ごろまでは関所の守り仏があるだけでした。そのころ関聖という僧がここに本式の寺を建立いたしました。関聖上人については次のような話があります。
 奥山に隠れ住んでいた老僧が居りました。毎日お経を上げていますと、そのたびに蛇がそれを聞きに来ました。変った蛇でして片目がつぶれておりました。蛇はある日姿を現わしませんでした。次の日も次の日も現われませなんだので、ついに老僧はどこかへ行ったものと諦めました。
 しばらくして漁師が駿河湾で大きな蛸を捕らえました。それは変った蛸でして片目がつぶれておりました。村の人々はそんな片輪蛸を食べるのは縁起が悪いと思ったので、それを浜辺に埋めました。
 埋めたところには草が生い茂りました。村のやもめがその草を食べますと不思議にもみごもりました。男の子が生れましたが、片目がつぶれていました。
 希望を失った女は子供を道連れにして死ぬ決心はいたしましたが、山に住んでいた老僧がそれを止め、子供を引き取って育てようと申し出ました。
 その通り事がはこびまして僧は子供に仏の道を教えましたが、長じて関聖上人となり、清見寺を建立したのがこの子供なのです」
 広重は微笑したまま無言だった。しばらく間を置いて僧は、上人の墓をご覧になりませんかと静かに尋ねた。
 広重はうなずいて案内に従い、寺の側を通って聳え立つ杉並木の根本の急な坂道を登った。琉球の王子の墓の側を通りぬけ、寺の代々の住職の墓地に着いた。僧ははげ落ちて苔が生えた最初の一番古い墓石を指さした。それは蛸の形につくられていた。
琉球からの長旅
 琉球使節の江戸参府は江戸上り(えどのぼり)と呼ばれていました。将軍が新しく変わった時には、慶賀使、琉球王が新しく変わった時には謝恩使と言われ、全部で18回あったそうです。
琉球を出てから、薩摩~江戸、行事を終えて薩摩~琉球の往復は、4,000キロを越え、約1年に及ぶ旅でした。
鹿児島港に停泊する琉球船の写真
この船で、琉球から鹿児島~瀬戸内海~大坂まで来たのです。
淀川を川御座船で上る。
琉球使節の路次楽が演奏される。川には多くの見物人。
 江戸上りの1~2カ月前にになると、通行筋の宿場や城下町では人家の屋根の葺(ふ)き替えや道の修理が行われます。
 琉球使節の江戸上りが近づくと、道中の大坂・京都・名古屋・江戸の本屋では、江戸上りの案内の本や絵図が売り出された。
 行列の通過直前には、道に水がまかれ、道が掃き清められた。見物の人々は、沿道の家のひさしの中で、琉球使節の行列を見物した。
 その折にこの扁額、『永世孝享(えいせこうきょう)』と書いてあります、この扁額を寄進していったと言われています。
 その『永世(えいせ)』っていうのは「具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の供養をずっと続けますよ。」っていう意味らしいですね。
 『孝享(こうきょう)』っていうのはちょっと難しいんですけど、「お墓の清掃とか草取りとかって、線香をあげるとかって」ありますよね。しかし、自分達ではそういいことは事実上できません。ですから、「お墓のお守りをちょっとお願いしますよ。」っていうそんなような意味らしいですよ。」
清見寺の奥の小高い山に向って
いろんなお墓の一番奥にありました。
さすがに琉球は見えませんが三保半島が見えました。
 「今、そのお墓というのは、この境内にあるんですか。」
 「ええ、ちょっと高いところにあるんですね。
というのは、あの家康公の命によって故郷が見えるようにということで、当時の清見寺の墓地の一番高いところに造ったのです。
 もちろん、実際には琉球が見えるわけではないんですけど、そんな配慮もあったんではないかと思います。
 
【静岡】1609年の薩摩侵攻後の徳川将軍謁見(えっけん)で江戸に向かう途上、病死した具志頭王子尚宏の墓がある静岡市の興津清見寺で8日、400回忌法要が営まれた。沖縄からの参列者約70人を含む計400人が参列。志半ばで逝った王子を悼むとともに、静岡県関係者の手厚い供養への感謝を込め、「おもろ」詠唱、古典芸能、御座楽などが奉納された。(琉球信報より)
 それから、具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)が亡くなった慶長15年、西暦1610年から400年経った2010年がちょうど400年遠忌(おんき)っていう年になります。
 この400年遠忌(おんき)の具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の供養をするために、沖縄県から130人の大部隊が出てきてくれました。そして、この清見寺に琉球に伝わる立派な舞踊(ぶよう)を奉納していってくれました。
 
写真は、琉球舞踊
 ですからこのお寺さんっていうのはただ単に古いだけじゃないのです。名立たる武将ですとか、朝鮮や琉球国王の名代(みょうだい)としての偉い方が来るわけであります。このお寺は、そういう方々をお迎えする迎賓館の役目を果たしてきました。また、そういう方々に対応できる住職さんもおいでになったのです。この清見寺は、なかなか立派なお寺だということになるかなって思います。」
追記
 清見寺の境内の中に入って、大方丈の前の臥龍梅の写真を撮ろうと思った時に、下を見たら瓦が埋まっているのがわかりました。しかも、滑らないように丁寧に縦に埋まっているのです。
 よく見ると、巨鼇山(こごうさん)と書かれた鬼瓦や徳川家の三つ葉葵の御紋の鬼瓦が埋まっているのです。
 
地面には瓦が敷き詰められておりました。
巨鼇山(こごうさん)の文字の鬼瓦
徳川家の三つ葉葵の御紋の入った鬼瓦
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税理士法人森田いそべ会計
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TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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