本文へ移動
 3.家康公手習いの間
(清水歴史探訪より)
 
 方丈の裏手、庭園に面した一角に小さな畳の間があります。
 
 「ここに、家康手習いの間っていう3畳一間の暗い部屋があります。
 
 家康さんが松平竹千代の時代、8歳から14歳頃まで竹千代さんと呼ばれていまして、家康さんは駿府におりました。
 家康さんが、このお寺でお勉強したのはまた幼少期になりますが、このお部屋は後の時代に建てられたお部屋です。ですから、このお部屋で家康公、竹千代さんはお勉強してないんですよ。」
 「そうなんですか。」
 「はい。今川家の菩提寺(ぼだいじ)っていうのは臨済寺(りんざいじ)でした。
        臨 済 寺
臨済寺(りんざいじ)
 臨済寺は、静岡市葵区大岩町にある、臨済宗妙心寺派の禅寺である。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川館(現在の駿府城)の北西に当たる賤機山(しずはたやま)の麓に位置する。
享禄年間(1528年-1532年)に、今川氏親が、出家した子・栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、太原雪斎(たいげんせっさい)を招き建立した寺院・善得院が前身である。
 今川氏人質時代の家康(松平竹千代)が教育を受けたところとしても知られており、駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けた。
太原雪斎
竹千代
臨済寺 家康(竹千代)公手習いの間
 その臨済寺の住職であって、今川家の軍師という非常に重要な役目、ナンバー2の偉い方で、太原雪斎(たいげんせっさい)っていう方がおりました。
 この太原雪斎(たいげんせっさい)は、理由があってこの清見寺の住職も兼務していたのです。太原雪斎(たいげんせっさい)が、この清見寺に仕事に来るとき竹千代さんを連れて来たり、あるいは『おい、こっち来いよ』って呼び出したりして、勉強したのはこの建物の前の時代の建物なんです。
 その後だんだん家康さんが大きくなった頃、武田側と徳川さんの争いになったのです。もし武田の軍勢にこの清見寺を占拠されると駿府の町が非常に攻められやすくなって危ないって心配したんです。それで、臨済寺とこの清見寺の両方を勝ったら建て直すという約定の元に焼き払っちゃったんです。」
 「はい。」
 「それで勝ちましたので、この建物を建てたんです。ということで、お寺さんが家康を顕彰(けんしょう)するために後から造られたお部屋なのです。」
 
織田信長の武田征伐(=甲州征伐)
 
 天正3年(1575年)5月には武田勝頼軍と織田・徳川連合軍との間で長篠の戦いが発生し、武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫した。
 天正10年(1582年)2月3日には信長は勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。同盟者の徳川家康が駿河方面から、進軍することに決定した。
 この時(3月3日)、家康は清見寺と臨済寺を復旧を誓って焼いてしまったのである。
 武田氏は3月11日に滅亡した。
 
 
豊臣秀吉の北条征伐

 天正17年(1589年)12月13日、秀吉は北条征伐を決意した。
 東海道は、敵を攻撃するための主要拠点となり、清見寺の再建も急速に進められた。もしこの北条征伐が無ければ、家康は進んで清見寺の再建に力を入れたかどうかは、議論の分かれるところである。
 なお、この北条攻めに関連して、北条氏の持つ韮山城攻撃のため『清見寺の鐘』を貸すことになった。この鐘、どうみても簡単に運べるものではなく、よく戻って来たと感心する次第である。
 「では、記念碑的なお部屋なわけですね。」
 「そういうことですね。記念碑的なお部屋っていうことで理解していただくと分かりますが、なんか直接的にこう見るとなんとなくね・・・。」
 「そうですね。狭いですし寒そうですし、家康公がいたとはとても思えないですね。」
 「そうですね。だから冷遇したんじゃないかなってイメージに繋がるんですけど・・・。
 決して冷遇したなんてことはなくて、今川家では、三河の若大将がこれから今川家を、また応援していただくということを期待込めて、重臣並みの教育をしたりしたわけです。ですから、人質っていう言葉がちょっと当てはまらなくて、今の言葉で言うと研修という言葉の方がいいのかもしれないということですね。」
4
7
4
0
6
6
税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
TOPへ戻る