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 5.根岸飛行場の跡地を訪ねて
        甲飛予科練像
(清水歴史探訪より)
 根岸飛行場に関する記録は、ほとんど残っていません。当時の航空写真には、うっすらと滑走路らしき物が映っています。場所は、現在、三保の灯台として親しまれている清水灯台のすぐ近くだったようです。
 
「今、ちょうど三保の灯台がすぐ近くですね。予科練の石碑が建っている所を、記念碑が建っている所を後ろにして」
「そうそう。」
「三保の先端の方へ向かって」
「そういうことですね。」
「ここです、ここ」
その後の根岸飛行場
 根岸錦蔵の航空機による魚群探査事業は、根岸氏が強引に実施したという経緯があったため、最初から妬まれていたようです。
 ついに、航空局は、「①静岡県の魚群探査に根岸を使うならば補助金を打ち切り②今後魚群探査事業は東京航空輸送会社に任せる」と決定してしまいました。
 事業が東京航空に移り、クビになってしまった根岸氏は、その後東京航空の実施する魚群探査飛行に、魚見役として同乗していたのですが、これも県から禁じられてしまい、魚群探査と完全に縁を切らざるを得なくなってしまいます。
 根岸氏が魚群探査飛行のために「根岸飛行場」を使用していたのは、昭和4年までです。
 根岸氏の跡を継ぐ形で、水上機による魚群探査は昭和18年頃までは続けられたと考えられています。
 ところで、清水海軍航空隊は、昭和19年に開隊しました。「清水三保青春の雄叫び・清水海軍航空隊史」という本には、「根岸飛行場格納庫には、魚探機1機と滑空機が2機格納されていた。」と記載されております。推論の結果、『清水海軍航空隊の格納庫』は、『「根岸飛行場格納庫』をそのまま使用したと思われます。また、清水海軍航空隊が使用していた滑空場は、今日のような舗装された細長い「滑走路」ではなく、根岸飛行場と同じく、海岸線に沿った平坦な場所だったのです。
 なお、清水海軍航空隊は、教育訓練部隊のための航空機のない航空隊として知られておりましたが、本の中には『滑空訓練』のことが記されております。どうやら、グライダーで訓練していたようです。
1944年の米軍の資料
拡大してみました。
「今、飲食店のすぐ横の脇道ですね。」
「昔ここは鯨御殿といってね。」
「今、石垣がありますが」
「石垣があるのが、昔、鯨で儲けたから御殿といって。」
「はい、大きなお宅が」
「あったんです。昔はね。だから、その角のここら辺に格納庫があって、この海に向かって誘導路があってね。」
「今、ちょうど駐車場の整備が行なわれて、工事が行われてますけれども」
「大体そんなような感じですね。ここにコンクリートの跡があったって言ってましたからね。だから爺さんが生きていればなんてよく言われたんだけど」
「それではその横の道は、昔の航空写真にも写っている道が今そのまま残っている」
「そうそう、鯨御殿の横で、三保の人なんかはここを歩いて来たと」
格納庫よりコンクリートのレールの上を手押し、清水灯台に向け滑走離陸して、浜石岳・富士山に向う。(根岸貞三氏提供)
 「ここに格納庫があって、その誘導路というのは海に向かってどのくらい伸びていたんですか?」
 「それがね、わからないんです。こっちはもう記録がなんにも残っていないから。跡地が砂浜だもんで。だから、図面上に下していないからね。手でひっぱっていったんだから。二人で押して。」
 「飛行機を押していったんですか?」
 「誘導路は2条のコンクリート製で飛行機を押して、それから風向きにより方向転換して、浜石に向って飛び上がった。それから富士山に行って。風向きによってはあっちにいったり。風の向きがね。そのままこっちに行くやつもあった。」
 「それでは今の飛行場のように、固定した長細い滑走路があるという形ではないんですね」
 「なかったですね。昔は、そんなに飛行機の荷重(かじゅう)もないからね。だから踏み固めて、それで十分だったようです。女満別の流氷調査。そして北海道へ行く。清水を出発して、関東東北をね、中継地にしながら飛んで行った。最初は貨車で運んでる。飛行機をばらして。」
 「今だったらひとっとびですけど」
 「そうそう。まだあの時代はね。馬力も燃料もないからね」
 「当時は一回一回のフライトが全て冒険だったんでしょうね」
 「だから僕はね、命がけでとんだ根岸錦蔵というように発表をしているんだけどね。国際的にも日本の為にもやった、根岸錦蔵の功績、あとそういう飛行場を作った歴史、文化というのをどうしても残しておきたい。後世の為に。また、三保の松原に来た人にもこういったことを知って帰ってほしいと僕は思っているんですけどね。」
根岸錦蔵飛行士(当時57歳) 1959年杉本憲一代寫す
その後の根岸錦蔵氏
 戦争中も根岸錦蔵氏は女満別で流氷観測や千島列島の霧の観測等を行っておりました。もちろん、これらの気象データーは戦争に利用されておりました。
 最後の飛行機による流氷観測は昭和19年(1944)というから終戦の前の年です。流氷観測を終えて着陸寸前に横風を受けて墜落、根岸がとっさの判断でエンジンを切ったため全員軽傷ですんだようです。
 終戦直後、根岸錦蔵は船による流氷観測を続けておりましたが、GHQ(進駐軍)により公職追放されてしまいます。
 しかしそれでも根岸錦蔵は流氷観測をやめませんでした。民間会社で流氷観測を続け、最後には自分で会社を設立したのです。残念ながら、経営はうまくいかず、流氷観測や海上の霧の観測を断念します。
 根岸錦蔵は昭和58年(1983)に81歳で静岡市で永眠いたしました。
 
 かつて、世界の航空地図にも掲載されていた根岸飛行場。しかし、現在三保の地に根岸錦蔵や根岸飛行場に記した記念碑等はありません。将来に向けて、その功績を伝えるための努力が求められています。

 お話は、井口義久さんでした。
 
清水歴史探訪~清水歴史探訪~清水歴史探訪~

 お相手は、石井秀幸でした。この番組は、JR清水駅近く、さつき通り沿いの税理士法人いそべ会計がお送りしました。

 税理士法人いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧下さい。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
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TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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