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4.姿を消した蒲原御殿そして蒲原城とは
(清水歴史探訪より)
 
 姿を消した蒲原御殿、そして、蒲原城とはどのようなものだったのか。木屋江戸資料館 代表の渡邊俊介さんと、その場所を訪ねました。
 
  旧五十嵐歯科医院
 「江戸資料館を出まして、旧五十嵐邸のすぐ近くまでやってきました。この辺りに蒲原御殿に関連したものってあったんですか。」
 「そうですね。ここが、蒲原御殿に通じる御殿道(ごてんみち)といったものがあって、この通りがちょうど御殿道の跡という風な形になります。
 浜の方からこの御殿へ通じることもできますし、(古い)旧東海道、もともとの東海道、そこからもここに通ずるということで、非常に便利がよかったところなんですよね。」
     御殿道の碑
 
 「(今の)旧東海道のこの道から直角に海の方に向かって延びていくわけですね。」
 「そうですね。ほぼそんな感じですね。」
 「蒲原御殿があったと思われる場所というのは、ここからどちらになるんでしょうか?」
 「はい。だいたい、ここが西のはずれです。
 ここで見ていただければお分かりになると思うんですが、ここが五十嵐邸のところですね。
 三居沢(さんきょざわ)
 
 ここから東の方向に向かって本陣があります。約250メートルぐらいの向こうに蒲原の本陣があります。その本陣の向こうに三居沢(さんきょざわ)という川があります。
 
 そこまでのところが、西から東までの範囲ですね。
 南北がここから山の方を見ていただいて麓(ふもと)まで50メートルぐらいありますかね。50メートルぐらい向こうの麓(ふもと)からちょうどこの下、南側のほうを向いて50メートルくらい計南北が約100メートルありますか、そこのとこらへん辺りの線を結んでいただくとお分かりになると思うんですが、だいたいそこら辺が旧の蒲原御殿と呼ばれた所なんです。
 約7,500坪ぐらいあったという風に言われています。」
 「さすがに大きなものですね。」
 「そうですね。ですから、大きい建物が入母屋(いりもや)造りの板葺きの建物が2棟(むね)、それから瓦葺(かわらぶき)の大きな建物が1つ、これが主な建物だと思われますけど、そういったものが、絵図に残っております。
 その他に、米蔵とかそういったものが付属設備として、建物が並んでいたという風な記録が残っていますね」
 「そうしますと、かなりの建物、かなりの人もいたんですね。」
 「そうしますと、蒲原の宿にとっては非常に重要なものだったんですね。」
 「昔はそうだったんですよね。
ただ、その建物をですね、時代がだんだん変わりまして、参勤交代の制度とか、本陣の制度とか、そういう制度が整備されていきますと、だんだん御殿を持っている意味といったのが失われていきますよね。
 そこに、ちょうどと言ったらおかしいんですけど、元禄の大津波といういわゆる津波(実は高潮)が1699年に起こりまして、旧の街道に面していた建物がみんな高台のほうに逃れてきて新しい街並みが作られたという風な形になります。」
渡邊家所蔵の「天保年間(1830~1844)作成の絵図」
 1699年の元禄の大津波によって、古い旧東海道から山側(高台)に移ってしまったので、130年後の天保年間の絵図には『蒲原御殿』の影も形もありません。
 歴史街道にも指定されている旧東海道を渡ると、山側には若宮神社の鳥居が立っています。
若宮神社
西町(にしちょう)の和歌宮神社
 「これは若宮神社。西町(にしちょう)の向こう方に和歌宮神社ありますよね。あそこがもともとで、こちらは分かれみたいな形になっているんですが。」
「じゃあ、こちらの方は後から。」
「(後から)できたという形になっています。」
 
 和歌宮神社は一説には700年代には造られたと言われております。これに対して若宮神社は1600年代造られたと言われております。
 「この神社のすぐ後ろからもう山ですね。」
 「そうですね。だから、蒲原城を攻めていこうとしても、ここを迂回して登っていく形なんですよ。
 
 若宮神社の脇に細い道が今でもあります。この道を通って蒲原城に登って行ったようです。
 
 ここを斜めに上がっていかないと、蒲原城の方へは攻め入ることはできないという形になります。さらに、途中には三ノ曲輪(くるわ)や小峰砦などが待ち構えております。
 
 昔、御茶屋といったのが作られていましたが、絵図から判断すると、それはこの辺にあったんじゃないかなと思われます。
 この御茶屋が、今川が蒲原城を守っていた時には、地位のある人が来た時にこの御茶屋で装いを解いて体を拭いたり、お風呂に入ったりしたのです。
 それから支度を1回整えて、後ろの方の蒲原城、山の方に登っていったのです。そういう御茶屋という施設がもともとはここにあったのです。
 この施設(御茶屋)がだんだん発展していきまして、徳川家康がここの所を支配するようになると、武田の討伐から帰ってきた時に、ここの所で信長を接待したという風に言われていますね。
 
 家康は信長の接待の為に、ここの蒲原の人たちを集めて、『何か面白いことはないか?』とかいうことで、(蒲原の人たちに)蒲原の古い民話とか言い伝えを話すようにさせたのです。
 蒲原の方に昔から伝わる浄瑠璃姫の話とか、山部赤人の話とか、そんな話を色々しまして、信長を大変喜ばせたという風なことが言い伝えられています。
 
 浄瑠璃姫の話は、清水歴史散策の第二十一話補陀落山(ふだらくさん)鉄舟禅寺を訪ねての「7.『薄墨の笛』と浄瑠璃姫の話」で出てきますが、少し説明いたします。
浄瑠璃姫の哀話

(「夢 出あい旅 サイバー五十三次」より)
 
 蒲原中学校前の松林に浄瑠璃姫の墓と伝えられている石碑がある。
 浄瑠璃姫は、三河の国・矢矧の長者の娘で、奥州下りの牛若丸と一夜の契りを結ぶ。しかし牛若丸は、奥州に行くため悲しい別れとなるが、丁度蒲原にきたところで病に倒れ息絶えてしまう。
 
 夢のお告げでことを知った浄瑠璃姫は、かけつけて牛若丸を生き返らせ旅に送り出す。
 ここまでが「浄瑠璃物語(十ニ段草子)」として声曲・浄瑠璃の祖になり流布されたが人気から続きがつくられた。
 国に帰った浄瑠璃姫は牛若丸が忘れられず、一人奥州の旅に出るが奇しくもこの蒲原の地で病に倒れ死ぬという哀話である。
 
 この古浄瑠璃から歌舞伎の浄瑠璃と人形浄瑠璃が分かれていった。
 
 また、近くには牛若丸が浄瑠璃姫に文を送った時に使用した清水の跡という源義経硯水の碑があって蒲原宿は古来より重要な宿場だったという。
山部赤人の話
 山部赤人は、次の和歌で有名です。
田子の浦に うち出(い)でてみれば 白妙(しろたへ)の
富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ
この田子の浦とは、元々は蒲原の海岸だったそうです。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
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代表 森田行泰
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