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10.追記~次郎長の家系図
 清水次郎長の子孫にあたる方からお手紙を頂きました。お手紙の内容を記載させて頂きます。
 
 お手紙をくださった方は、高田けんさんのお孫さんにあたる方です。高田けんさんは、清水次郎長の姪で、養女でもある江尻志茂町にあった遊郭、千畳楼(せんじょうろう)の女将(おかみ)まつの四女にあたる方です。
 この女将(おかみ)まつさんもその跡継ぎのいそさん(諸田玲子さんの時代小説『波止場浪漫』ではイソと平仮名で登場します。)も家系図に記載されております。
 お手紙をくれた方は、「清水次郎長には子供は存在されないので、真実を記載してください。」と書かれておりました。
 
 私が、諸田玲子さんの時代小説『波止場浪漫』の解説(=あらすじの記載)で、「初志郎は次郎長が三河の女に産ませた子で、次郎長を『親父』、おちょうを『母さん』と呼んでいた。」と記載したことを問題にしたのではないのでしょうか?
 
 私は、諸田玲子さんの『波止場浪漫』を読んで、少なくとも「おようさん」は架空の人物であると確信いたしましたが、次郎長の実子として登場する「桜井初志郎」は、もしかしたら実在の人物かもしれないと思った時もありました。今回のお手紙で架空の人物であることがはっきりいたしました。
 しかし、時代小説を書くのは大変ですね。できる限り事実に沿って書かないと関係者からクレームがつきますし、小説(=作り話)である以上、読者を引きつけるような創作も必要であります。
 問題となった「桜井初志郎」は、『波止場浪漫』の随所に登場しますが、上巻の『明治1 ハワイ』の章の43ページに次のように記載されております。
 
 「けんが物心ついたときから初志郎はおなじ屋根の下に住んでいて、次郎長を「親父」、おちょうを「母さん」と呼んでいた。だが桜井という姓があるとおり、山本家の戸籍には入っていない。
 <ありゃァ次郎長が三河の女に産ませた子だ>
 おととし死去した菩提寺の元住職、宏田和尚は生前、口をすべらせたことがある。
 真偽はともかく、次郎長と初志郎のあいだにはぎくしゃくしたものがあった。次郎長は初志郎によそよそしい。初志郎は次郎長の神経を逆なですることばかりしている。」
 その後、次郎長の実子として登場した「桜井初志郎」は、度々、『悪役』というよりも『いじけ役』・『ひねくれ者』として登場します。次郎長の関係者からみると耐えられないかもしれませんね。
主人公『おけんちゃん』について
 
 さて、清水次郎長の実子として書かれた『初志郎』が架空人物だとすると、清水次郎長の養女『おけんちゃん』までもが『実在人物』かどうか疑ってしまいます。
 清水次郎長の子孫の方から頂いた『家系図』には、山本けんの名前はのっておりません。もしかしたら、『おけんちゃん』までもが、架空の人物?ではないか?
 
 でも、ご安心ください、次郎長の養女『山本けん』は実在の人物です。証拠としては、船宿『末廣』をスイチさん(望月兄弟商会)に売却したとの『買受証』に、『山本けん』の名前が記載されております。
 また、清水港船宿記念館「末廣」のホームページにも、次郎長死後の「末廣」と復元までの歴史が、次のように記載されております。
 
  • 大正5年 おちょう死亡。次郎長の養女、山本けんが引き継ぐ。
  • 大正8年 売却され、船宿「港屋」として開業。
  • 昭和13年 売却され、清水鶴舞町に移築。
  • 平成11年 調査の結果 、鶴舞町の部材が「末廣」のものであることが判明。
  • 平成13年 創業当時の部材を生かして「末廣」を復元。
 
山本けん(昭和9年~大正10年)
植木重敏(元治元年~昭和7年)
植木重敏先生について
 
 では、おけんちゃんの相手役の植木重敏先生はどうでしょうか?写真があるから実在の人物と決めつける前に、もう一度、ネットで調べてみました。
 「横浜わが街シリーズのNo.386 清水の次郎長、横浜に通う」には次のように記載されておりました。隣の写真に写っている『次郎長の風景』という雑誌が基になっていると思われます。
 ここに「植木重敏」なる人物が登場します。
 清水の次郎長を見取った医師です。清水の医師会会長も務めた「植木重敏」は、高知出身で東京帝大医学部を卒業し、次郎長との劇的な出会いで 郷里高知に帰らず清水で開業します。
 「次郎長が横浜から清水へ帰る時、船の中で一人の医者の卵と同席した。次郎長のすすめでその医者の卵は清水で下船し、医師を開業したという。」
 植木重敏医師は、横浜港から次郎長と船旅を共にしますが、彼は明治31年頃「横浜黴毒病院院長」を務めていた記録が残っています。
次郎長葬儀の諷経帳(香典帳)に記載された植木重敏の名前
 『次郎長翁を知る会』という会があります。確か、代表は竹内宏さんで、実際の運営は、清水次郎長の研究第一人者の田口栄爾(故人)であります。その会報の第29号に『植木重敏』先生のことが記載されております。
 
 明治26年6月12日に亡くなった次郎長葬儀の諷経帳(香典の記録)の中に植木重敏の名がしっかりと書かれていた。その隣には芝野栄七の名があった。二人は次郎長葬儀に連れ立って参列したのではないだろうか。
 大正10年に亡くなった次郎長とおちょう夫妻の養女山本けんの葬儀の記録には、棺(ひつぎ)の傍に立つ人として、青木久吉、増田勇蔵、篠原幹三郎、入谷清太郎、加藤市五郎に並んで、植木重敏の名が書かれている。次郎長の親族、知人の中でも最も重要な人たちばかりだ。
 
  植木重敏・のぶ ご夫妻の肖像画
さらに会報には、次のように記載されている。
 
 明治、東海道線がまだ開通していない頃のことである。横浜から清水へ帰る船の中で、次郎長は一人の若者と知り合った。若者の名は植木重敏といい、東京帝国大学医学部を卒業し、郷里の高知へ帰るところだという。次郎長はこの若者を口説き、清水港で下船させて医院を開業させた。
 この話を聞いた次郎長生家の服部令一さんは驚き、半信半疑ながら清水郷土史研究会会長の土屋重朗先生に調べてもらったところ、当時の清水医師会の名簿にその名はあり、しかも会長職をつとめていることまでわかった。
 服部さんはその後、植木重敏の妻が、見付天神の宮司を代々つとめる幡鎌家から出ていることをつきとめ、袋井市の同家を訪ね、戸籍簿や次郎長が植木医師に宛てた手紙などのコピーを手に入れた。その成果は「季刊清水」第30号(平成5年)に詳述されている。
 
おけんちゃんと植木先生とのラブロマンス
 
 では、この時代小説『波止場浪漫』の主要テーマであるおけんちゃんと植木先生のラブロマンスは本当にあった話なのでしょうか?
 
 『波止場浪漫』を読んだ感想は、すべてが真実のように思えたり?すべてが作り話のように思えたり?いたします。
次郎長の子孫にあたる方から頂いた清水次郎長の家系図です。
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