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3.義経と梶原平三景時の話(続き)
 
 
壇 ノ 浦 の 戦 い
 
 いよいよ、平家滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦い「壇ノ浦の戦い」であります。壇ノ浦は山口県の下関にあります。古戦場の下には、関門トンネルが通っております。
 
 彦島の平家を倒すべく、義経は840余艘の水軍を編成。平家は500艘三手に分け、得意な海上戦で挽回を狙った。
(平氏優勢)
 関門海峡は狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の向きも変わるという特徴があります。午前に始まった合戦は、開戦直後は激しい東流れの潮流を利用した平家が優勢に進めると、不利を悟った義経が掟破りの平家水軍の非戦闘員の水手・梶取を射させる戦法に出る。
(源氏の反攻と平氏滅亡)
 昼近くに潮の流れが西に変わると攻勢は完全に逆転し、平家方に混乱が生じ、平家は壊滅状態となった。
 敗北を悟った平家一門は次々と海へ身を投げていった。せめて大将の義経だけは道連れにと、平家きっての武将・平教経は義経の船に乗り移り追いつめるが、義経は飛び上がり船から船へと飛び移り逃げていった。俗にいう「八艘飛び」である。
 死を決意した二位の尼(平時子)も、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて入水した。後を追った帝の母・建礼門院(平徳子)は入水するが生き残り、京へ送還される。
 海へ身を投げた平家一門の最後を見届けた知盛ら主要武将も次々と入水。総帥である宗盛も息子と入水するが、引き上げられ捕虜となり、壇ノ浦の戦いは
終わった。
(エピソード) 
 さて、『平家物語』によれば、「軍議で梶原景時は先陣を希望したところ、義経はこれを退けて自らが先陣に立つと言った。心外に思った梶原景時は『総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない』と愚弄し、義経の郎党と梶原景時父子が斬りあう寸前になった。」とあります。 
 
 
そ の 後 の 義 経 ( 腰 越 状 )
 
 梶原景時から鎌倉の頼朝宛てに一通の報告書が届きます。『吾妻鏡』によると、「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います。」と記載されているのです。 
 そんなことは露知らず、義経は意気揚々と、壇ノ浦で捕らえた平宗盛清宗父子を護送して、京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしました。しかし、頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れました。 義経は、鎌倉郊外の腰越(現鎌倉市)の満福寺に留め置かれた。この時、頼朝に対し自分が叛意のないこと記載した書状が有名な腰越状であります。
 

 義経が頼朝の怒りを買った原因は、①許可なく官位を受けたこと、②梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、③義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことなどである

 まあ、後白河院と仲良くしたことも、頼朝には容認出来るものではなかったのでしょうね。

 しかし、すべての原因は、梶原景時のチクリでは?

 
 
そ の 後 の 義 経 ( 謀 反 )
 
 結局、義経は鎌倉へ入る事を許されず、帰洛を命じられた。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。
 頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送り義経邸を襲った(堀川夜討)が、襲撃側の敗北に終わった。
 ついに義経は、頼朝打倒の旗を挙げ、後白河法皇に奏上して頼朝追討の院宣を得る。しかしながら、賛同する勢力は少なく、今度は、法皇が義経追討の院宣を出し、頼朝が軍を率いて義経追討に向かうこになる。
 義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。九州へ船出しようとしたところ、途中暴風のために難破し、主従散り散り、義経の九州落ちは不可能となった。(ここから歌舞伎の船弁慶が生まれる)

 義経は郎党や愛妾の静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられる。

 京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。途中、山伏と稚児の姿に身をやつし、伊勢・美濃を経て奥州へ向かう。(ここから歌舞伎勧進帳が生まれる)そして、正妻と子らを伴って陸奥(みちのく)平泉に身を寄せた。

船弁慶
勧進帳
 
 
そ の 後 の 義 経 ( 最 後 )
 

 奥州藤原家3代目藤原秀衡(ひでひら)は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187に病没した。

 頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡(やすひら)に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。藤原泰衡(やすひら)は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲った。

 義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。

平泉にある浄土式庭園
中尊寺金色堂
奥州平泉

 

 

そ の 後 の 梶 原 景 時 ( 讒 言 )

 

 梶原景時の讒言(ざんげん)と呼ばれるものは、義経だけでなく、いくつものの事例があると言われております。讒言(ざんげん)とは、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うことだそうです。

 讒言(ざんげん)が嘘とばれて、罰として梶原景時に、鎌倉の道路の普請が科せられたり、人望のある人物を陥れようとしたとして梶原景時は御家人たちからひどく恨まれたそうです。

 しかしながら、武勇だけではなく、事務能力・実務能力に優れ、また和歌のひとつもこなせる梶原景時は頼朝の信頼は厚かったようです。

 

 

 梶 原 景 時 の 変 ( 最 後 )

 

  さて、頼朝が死んだ翌年、結城朝光という人が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べたそうです。翌々日、御所に勤める女官である阿波局が結城朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言(ざんげん)し、あなたは殺される事になっている」と告げました。驚いた結城朝光は三浦義村に相談したところ、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成されたのです。

 将軍頼家は、この連判状を梶原景時に見せて弁明を求めたが、梶原景時は何の抗弁もしませんでした。梶原景時は謹慎しましたが、その後、鎌倉追放を申し渡されてしまいました。

 梶原景時は、自体が急変したのはすべて北条の仕業であると考え、北条追討のため、一族とともに京都へ上る決意をします。

  正治2年(1200)正月、梶原景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立。途中、駿河国清見関にて戦闘になり、一族33人が討ち死にしました。『吾妻鏡』によると、梶原景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとなっております

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