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6.静岡市埋蔵文化財センターを後にして

(清水歴史探訪より)

 

この地域の繁栄の中心にあった尾羽廃寺。お寺は、いつごろまで存在したのでしょうか。

 

「廬原(いほはら)氏なんですが、その後はどうなったんでしょう。」

「そうですね、廬原(いほはら)氏と言いますと、日本史の中では、朝鮮半島へ白村江(はくそんこう)の戦い、『はくすきのえのたたかい』ですね、出て行って、ということも残っておりますけれども、その後はあまり文献の方には沢山は出てまいりません。

白村江の戦い
 
 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
 
1.任那の滅亡
 倭国と呼ばれた我が国は、半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていた。(日本書紀)任那は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。
 
2.任那滅亡後
 仁那滅亡後の6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。倭国は百済と関係が深く、友好国であった。一方、中国では581年に隋が建国され、628年には唐が中国を統一、唐は高句麗と百済と対立。
3.百済の滅亡
 百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。これに対して、新羅は唐に朝見し救済を求めた。唐は、高句麗と百済に対して停戦を命じたが両国とも受け入れなかった。ついに、唐軍は高句麗・百済の両国を攻撃、660年百済は滅亡してしまった。
 
4.百済の復興と白村江の戦い
 唐軍の主力が高句麗に向かうと百済残党と倭国の連合軍による復興を目的に白村江の戦いが起きた。白村江の戦いは倭軍の惨敗に終わった。
 
5.高句麗の滅亡
 白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では668年に高句麗が滅亡した。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった。

廬原君臣(いほはらきみおみ)の参戦 

 <史料1>は、『日本書紀』天智天皇2年(663)8月13日の条に記載された白村江の戦いに臨む百済王の余豊璋の言葉であり、「日本から救援軍の大将として廬原君臣が強力な援軍を率いてくるので、承知して戦ってほしい」と諸将を鼓舞している。

 白村江の戦いの結果は、ヤマト政権が支援した百済再興軍が大敗し、日本の400艘余りの船は炎上し、海が真っ赤に染まったと中国の史書は伝えている。

 <史料1>の廬原君臣は、白村江の戦いにおいてどのような戦いをしたかは不明であるが、静岡市清水地区を中心に本拠とした廬原国造(いほはらくにのみやつこ)である廬原氏の出身である。

 

蘆原君(いほはらのきみ)とその末裔(まつえい) 


 『日本書紀』天智天皇2年(663)条の白村江の戦いで、蘆原君が援軍の将として登場します。最古の仏教説話集『日本霊異記』には、白村江の戦いからの無事帰国を感謝して寺院が建立されるという備後国(びんごのくに・広島県)の話が載せられています。蘆原氏が当地方への仏教の浸透に努め、それが7世紀末ころの尾羽廃寺の建立へとつながったとも考えられます。


 奈良時代以降では庵原郡の郡司クラスとして庵原氏の名が見え、中世以降もこの地にとどまり、今川氏の軍師として名高い太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)を排出します。

 ただ、この辺りが庵原(いはら)郡、廬原(いほはら)氏の中心部であったというのは、ある程度時代的には続いていきます。その後、直接、昔の廬原(いほはら)氏とのつながりというのははっきり分かりませんけれども、やはり、『庵原氏(いはらし)』という、中世になってからの武士団がこのあたりにいたと考えられます。」

「このお寺なんですけれども、いつごろまで存在したんですか。」

「そうですね、先ほど申し上げた金堂については、建替えられているということが、発掘調査で確認されています。建替えがされたのは、だいたい10世紀から11世紀ぐらいという風に考えられます。

 それ以降はどうも再建されずに、整備等が続けられずに今に至っているという風に考えられます。これは、深い関わりを持っている廬原(いほはら)氏の盛衰と大きく関わっているのではないかと考えられます。」

尾羽廃寺跡展 略年表

538  仏教の伝来(百済聖明王から経典、仏像、幡蓋がもたらされる。)崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏、中臣氏)

588  飛鳥寺(法興寺)の建立(物部氏討伐のために蘇我馬子が戦勝を祈願したのが始まりとされる)

607  若草伽藍(法隆寺)の建立(聖徳太子)

    四天王寺の建立(聖徳太子)

639  百済大寺の(吉備池廃寺)建立

641  山田寺の建立(蘇我倉山田石川麻呂が建立に着手、石川麻呂無実の罪により死後685年に完成)

645  大化改新

662  このころ川原寺の建立(天智天皇が斉明天皇の追善のために建立?)

663  白村江の戦い(蘆原君臣援軍の将として参戦)

670  若草伽藍(法隆寺)の炎上

    法隆寺の再建

673  川原寺で一切経書写

680  薬師寺の建立(天武天皇が皇后の病気平癒を祈って建立)

685  天武天皇により諸国家ごとに仏舎をつくり、仏像と経典をおいて、礼拝供養せよと   

    の詔がだされる。このころから多くの地方寺院が建立される。

   このころ尾羽廃寺が建立されたと思われる。(7世紀後半)

700  このころ島田市竹林寺廃寺の建立(8世紀初頭)

  このころ富士市三日市廃寺の建立(8世紀初頭)

741 聖武天皇により国分寺建立の詔がだされる。

   このころ片山廃寺跡が建立されたと思われる。(8世紀中ごろ)

1000 このころ尾羽廃寺の金堂を再建

中世 尾羽廃寺跡は中世になって廃絶


 

 尾羽廃寺のさまざまな出土品や、瓦を焼いた窯の状況は、静岡市埋蔵文化財センターで展示・保管され、調査も続いています。

 当時の先進的技術を取り入れた、窯のあった場所は、公園として整備され、記念碑に刻まれた説明文のほか、当時を偲ぶものは残されていません。

 しかし、そのすぐ隣には、ロボットを開発する工場などが立ち並び、現在も最先端の技術開発を担っています。

 お話は、静岡市歴史文化課の鈴木のぶゆきさんでした。

 

清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

 

お相手は、石井秀幸でした。

 

この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください

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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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■日本公認会計士協会所属
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