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10.日蓮主義研究『化城の昭和史』下・前半
『化 城 の 昭 和 史』 下
 
昭和史を問うことで、いま、21世紀の
日本像が透視される!
 
二・二六事件への道と日蓮主義者
 
海の上に城現はる
一城つづ現れては消える
後 虹現は
----------------------------------------北 一輝
 
7.蒲田名物 知ってるか
 江川忠治は、『日蓮会』の会員の中から28名を選んで『日蓮会殉教衆青年党』を結成した。通称、『死のう団』である。

日蓮会殉教衆青年党(死のう団)結成のいきさつ

 日蓮会は、蒲田に建設した「日蓮会館」を拠点として、積極的に辻説法を行った。最盛期の1931年頃には、500名ほどの信者を擁していたとみられる。

 しかし1932年に入って、組織を揺るがす事件が発生した。

 ある建設業者の愛人の女が、日蓮会館に入り浸るようになった。説法には関心を示さず、盟主の江川を連れ出そうとする彼女を見た信者らは、彼女が江川を誑(たら)し込もうとしていると噂した。江川は彼女の家を訪れ諭そうと試みたが、それを知った建設業者は、屈強な部下達を会館に送っては「よくも俺の女に手をつけたな」「江川を出せ」などと怒鳴らせるという嫌がらせを執拗に行った。会員らの中には、これに恐れをなして、あるいは盟主の乱れた女性関係を信じて失望し、脱会する者が続出した。

 19331月、日蓮会の新年会に出席した若者らは、このままではいけないと口々に言い合った。現状への不満を募らせた彼らの出した結論が、「死のう団の結成」であった。

 

我が祖国の為めに、死なう!!!

我が主義の為めに、死なう!!!

我が宗教の為めに、死なう!!!

我が盟主の為めに、死なう!!!

 我が同志の為めに、死なう!!!  
 昭和8年(1933)7月2日、横浜市杉田の梅林に集合した一同は、『死のう、死のう、死のう。』と絶叫しながら歩いた。この不気味な集団を尾行した神奈川県警はいっせいにおどりかかり、全員を逮捕した。その後、盟主の江川桜堂(忠治)が自首したので、一件落着のはずであったが、警察は若い女性を含む団員を拷問したのである。その結果、釈放後『死のう団』は警察を告訴しマスコミ沙汰になり、結果、特高警察1名自殺、1名免職となった。
 
写真は、逮捕される『死のう団』
 
 
 『死のう団』の事件は、これで終わらなかった。昭和12年(1937)2月17日、5人の死のう団団員が、集団切腹を試みたのである。
 
 
写真は、当時の新聞記事
8.軽燥の法鼓
昭和11年(1936)2月26日未明 二・二六事件発生
 
 『化城の昭和史』では、この二・二六事件を、山本又予備役歩兵少尉(42歳)を中心に書き始めている。
 山本少尉の軽躁ぶりは、二・二六事件の渦中に違和感が満ちたものだった。
 反乱軍と戒厳軍が対峙している中、日本山妙法寺の修行者が現れた。山本又は、お願いして新議事堂の入り口で君国の安泰を祈ってもらったというのだ。緊迫の戦場で白衣に黄色い袈裟の僧がウチワ太鼓を連打したのである。
 さらに、山本少尉は最後の土壇場で、山王ホテルの裏口から厳重警戒の中をくぐりぬけ、身延山久遠寺に参拝しに行っているのである。
 その山本少尉が、石原莞爾を刺殺するかどうか判断するため、石原莞爾との話し合いを行った。拳銃を握りながら『我々の決起行動をどのように考えるのか?』と尋ねると、石原は手を胸の前で合掌しながら『国家諌暁(こっかかんぎょう:国の間違いを正す)である限り、その行動は正しい。大聖人の教示し給わったところだ。』と答えた。
 その結果、日蓮主義者の山本又少尉は、殺害するどころか敬礼し感激したのである。
 事件の起きた直後の2月26日は、『尊王討奸の義勇軍は必ず天皇の支持を受ける』と信じていた反乱軍であった。
山本又の 二・二六事件蹶起将校 最後の手記
 
 山本は当時、42歳。20代~30代が中心の青年将校より一世代上のため、一歩引いたスタンスで事件を見つめている。また、各部隊との連絡役だったため、二・二六事件を網羅的に記述している。
 
 
 二・二六事件蹶起将校 最後の手記の感想・レビューより
 
 山本又という著者を知る人はすくない。しかし、2.26事件の青年将校はみんな処刑され、事実を語るのは、この予備役少尉山本又ひとり。貴重な昭和史の資料の一つである。太平洋戦争が開戦し、山本又は、この戦争は必ず負けると言っていました。おそらく青年将校達もアメリカと戦争するなんてばかだねと言ったのではないでしょうか?
9.戦う幕僚たち
 2月26日午後9時、杉山元参謀次長と武藤章中佐が宮中から戻って来た。石原莞爾は、大詔渙発(たいしょうかんぱつ)を期待していたが、戒厳令の発令が出たので討伐するというのだった。これでは、反乱将校が硬化するだけだと石原は思った。
 翌日の午前零時すぎに、石原莞爾は帝国ホテルで橋本欣五郎大佐(事件終了後、予備役に降格)と満井佐吉中佐(事件終了後、禁錮3年)と会っていた。その会談の直前に石原莞爾は、武藤中佐から天皇陛下の反乱軍討伐の意思が強いことを聞いていたのであった。そんなことを知らない橋本と満井は後継首班のことまで話題にしたのだった。
 暴徒鎮圧の『奉勅命令』の発令はもうすぐである。
杉山 元 
明治13年 -昭和20年
二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。
武藤 章
明治25年 -昭和23年
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條らと対立。東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。
橋本 欣五郎
1890年 - 1957年
二・二六事件の際には、決起部隊側に有利な様にと努力。大佐で予備役へ。極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴され、終身刑。

満井 佐吉

1893年- 1967年

相沢事件では、相沢の特別弁護人をつとめた。二・二六事件では、禁固3年・免官。1942年には衆議院議員に立候補、当選。
10.順逆不二
 武藤章中佐を中心に、事件処理の骨子が完成した。反乱罪を将校団にしぼり下士官や兵には寛大にする。事件の背後の関係者については広範囲に取り調べる。さらに、事件関係の将軍を予備役にしたことに関連して、『現役大臣制』と『軍務課』の新設を決めた。このことは、その後の政治に大きな禍根をのこすものだった。
 反乱軍の討伐が決定した後、問題は秩父宮殿下であった。秩父宮殿下は青年将校に共鳴していると思われていた。ところが、宮中に参内した秩父宮殿下は、『決起部隊の指揮官に、軍籍をはく奪された元将校がいるのは許しがたい』と述べたのであります。
 さて、その後反乱軍がどのように鎮圧されたかは省略いたします。

順逆不二

 

 

日蓮主義・北一輝の考えを理解するには、この『順逆不二』の思想を理解する必要があります。

 

とは順縁のことです。順縁とは、素直に仏縁を結ぶということです。仏の真実の教えである妙法の教えを聞いて素直に信じ、仏道に精進する者を順縁の衆生といいます。

次に、とは逆縁の事です。逆縁とは、妙法の教えを聞いても信ずることなく破法(はほう)・謗法(ほうぼう)を重ね、後にその罪が逆に仏縁となっていくことをいいます。

では、不二とはなにか?不二とは二つに見えるが、実際は一つであることを言います。

順縁の衆生は南無妙法蓮華経を素直に信受して即身成仏の大功徳を受けますが、逆縁の衆生は誹謗(ひぼう)の罪によって一時は無間(むけん)地獄に堕ち、無量の罪苦(ざいく)を受けます。それでも、やがては自らの心田(しんでん)に植()えられた妙法の仏種が薫発(くんぱつ)し、必ず成仏することができるのです。

このように、順縁の衆も逆縁の衆も同じく折伏を受けたものは救われるのです。

したがって、一刻も早く謗法者(仏教の正しい教えを軽んじる者)を地獄に追い落とし、そこで仏の慈悲を受けさせる。逆縁の功徳により君側の奸も維新の一翼をになうことができるのです。

『語るは易、行う事難し。敵見事粉砕す。国家法案重点。汝らに重きを知れ、仙人。(北一輝の霊感夢告、昭和11年正月13日)』

まさに日蓮主義過激派・テロリズムの教えなのです。

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