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1.東京と清水を結ぶ航空路線とは

(清水歴史探訪より)

 清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

 

毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。

 

 

・・・空港の音・・・

 

(清水歴史探訪より)

 静岡の空の玄関口として、国際線・国内線のジェット機が発着する、富士山静岡空港。しかし、さかのぼること80数年前、清水が空の玄関口であったことはあまり知られていません。かつて、東京‐下田‐清水を結んだ航空路線について調査している、カメラマンの山口博史(ひろふみ)さんにうかがいました。

 

 

・・・飛行機の飛び立つ音・・・

 

(清水歴史探訪より)

「第二次世界大戦前の話なんですけれども、清水に実は飛行機・旅客機が飛んできた時代があったんです。当時飛んできていたのは、水上飛行機なんですね。それが清水港に着水するという形で飛んで来てたんですけれども。」

「今、静岡空港がありますけれども、それより以前に民間空港路線というのが静岡県にあったわけなんですね。」

「そうですね。当時飛んでいた路線は、メジャーな東京‐大阪‐福岡という風なのとか、あとは各地で、短い路線というのもいくつか飛んでいたみたいです。昭和の6年には東京、今の羽田空港付近から、下田を経由しまして清水港に着水するという風な形で、昭和6年の41日に結ばれるんですね。」

「羽田空港からではなかったんですか。」

WEBから羽田空港ができる前の地図を拝借しました。陸上の滑走路ではなく、海の上の『水上滑走路』だったのですね。
現在の羽田空港付近の地図です。弁天橋以外はすっかり変わってしまいました。

(清水歴史探訪より)

「そうですね。羽田空港は昭和の6年の、そのフライトの4月にはまだ未完成の状況でした。そこのところにですね、『東京航空輸送社』という、もう今はない会社なんですけれども、水上飛行機を下田を経由して清水、という風な路線をつくるんですよ。

^^愛知AB-1型機
 水上飛行機ってすごく実は小さいものでして、お客さんがですね4人に、パイロットが2人の、全員で6人しか乗れないような大きさの機体で、羽も上下に2枚ついていました。今の飛行機は単葉機で羽が1枚なんですけれども、当時は2枚の羽根の飛行機で、着水しなきゃいけないのものですから、下に『フロート』というのが2つ付いている、そういった機体で清水には飛んできてたんです。ほかに東京とか大阪とか、福岡にもちゃんとした空港ができていたので、そこで飛んでいる機体は陸上機でちゃんと普通に着陸する機体で、お客さんも20人位乗れるような機体が飛んでいました。でも、清水にはもっと小さい小型の飛行機で飛んで来ていたんです。」

「三保の先端のところに、赤十字が使っている飛行場がありますが、そうしますと、あの飛行場で降りていたわけではないんですね。」

「(降りていた)わけではないんですね。途中、間に下田というキーワードも入るんですけれども、下田も飛行場着陸できるようなところはないので、水上機で港に降りるという風な形をとっておりまして、もともと東京‐下田間を飛んでいたものが延長されて清水に来るんですね。そういう都合もあって、それで水上飛行機という形でこちらのほうに飛んできてたんですね、実は。」

「当時は、水上機というのはやはりメリットがあったんですか。」

「実はこの飛んできてた飛行機自体もですね、もともと陸上機のタイプを改造してというか、当時ですね、陸上型と水上型があるという風な機体もありました。

 それぞれのニーズに合わせて滑走路ができるところは陸上タイプで、滑走路がないところは水上飛行機でという形で、機種もいろいろあったようなんですね。水上飛行機もめずらしくはなかったんですねぇ。

 軍が使っていたものの払い下げ機という風な扱いの物が多かったもんですから、清水に来ていたものも、最初は旅客タイプではあったんですけれども、元2人乗りとか3人乗りとかの小型の物がありました。もうそちらは完全に軍の方で使ったものの払い下げという形ですね。

 で、結局その当時ですね、鉄道もそこそこ発達してたんですけど、やはり交通事情としてはやはり日本は黎明期で、国の方とかですね、当時、逓信省、今の郵便関係を扱っている所管なんですけれども、そちらのほうで航空機を使った郵便とかですね、そういう風なものを復旧させるというふうな目的もあったようです。

 当時、逓信省の航空局というところが飛行機の関係は管理していたんですけれども、清水港からは旅客だけではなく郵便も運ぶという業務もあったものですから、通常飛行機を使って運んでいるという風なこともあったんですけれども・・・。」

途中の下田について
 
 山口さんが書かれた『シリーズ「エア・ガール」東京ー下田―清水定期航路②(清 水 港 湾 事 務 所 広 報 紙みなとしみず)』には、次のように記載されておりました。
 
 就航先の下田は、明治時代には東京湾の守りと石炭補給基地として栄えましたが、燃料の重油への移行に伴い重要性が薄れ、それ以降は蓮台寺の金山以外の産業は低調だったようです。良港でしたが、陸路では、駿豆線(伊豆箱根鉄道)駿豆線大仁駅まで乗合自動車を使い半日以上かかったようで、悪天候時には天城連山を越える道も塞がり、陸の孤島となる事も度々あったようです。時代が昭和になり、東京-伊豆大島-下田航路を持つ東京湾汽船や渋沢栄一氏などにより、昭和2年玉泉寺にハリス記念碑、翌年には写真師下岡蓮杖の碑が建立されるなど観光地としての整備が進むと、伊豆大島・下田観光の一大ブームが起こり、観光地としての下田が確立されます。まさにこのタイミングでの航空路の開設でした。
 鈴ヶ森(東京)は、現在の羽田空港付近であり、ここには日本飛行学校、東京航空輸送社が有りました。就航先の下田にも搭乗者や貨物の取扱い先が必要であり、常駐する整備士や悪天候時のパイロットの受け入れ先として「蓬莱館」という旅館を使用していました。この旅館は、現在も営業しており、館内には貴重な写真が保存されています。下田の搭乗場所は、陸上機と違い滑走路が必要無い為、確定が困難でしたが、蓬莱館の土屋さんの証言と写真により武ケ浜付近であった事が判明しました。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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