本文へ移動
2.清水駅前闇市通り商店街
 
蒲原屋さんを尋ねました。
蒲原屋さんの正面です。
店の中です。
金子さんと跡継ぎ(他人)です。
(清水歴史探訪より)
古くからの商店街の姿を知り、現在も商店街で乾物屋の蒲原屋を営む金子武さんを訪ねました。
 
「こんにちは。金子さんのお店を開かれたのはいつごろなんですか?」
「昭和21年に、父親と母親が満州から引き揚げてきました。それでもって、満州からの引揚者団体が、集まって、今の株式会社ミナト市場というのを発足しました。当時は70軒の店があったんですね。みんな戸板一枚の店ですが」
「ここは戦前からこういった商店街みたいなものはあったんですか?」
「いえ、多少は駅の前にはあったんですけど、ほとんどなにもなかった。ここらへんはもう、戦争で全部焼野原になってしまって、清水駅からこの一面は焼けちゃってなにもなかったんですよ。そして、駅前の一部に小さな旅館、木賃宿みたいな。それに、居酒屋さんがちょっと残っただけなんですよね。それから始まって、段々、今の旧ミナト市場(みなとマーケット)の方に広がってくるんです。それもミナト市場(みなとマーケット)という闇市マーケットが出来て、そこが出来てから皆さんがお店を始めて、自然発生的に商店が増えてきました。だから露天商が始まり。その露店を始めた人が、前の所を儲けた金で買ったというのが始まりかな、というところですね。」
「終戦直後、この辺りには他に何があったんでしょう?」
「もうほんとに、露天商があった他には、掛け将棋や碁、あとはトランプのいかがわしい賭け事、あとガマの油のようなにわか的にくる露天商やバナナ売りもありましたね。」
 「まるで縁日みたいな感じですか?」
 「そうですね、毎日が縁日ですよ。だから賑わいはありました。物がないから、このミナト市場(みなとマーケット)ができたので、そこに来ればなんでも食料があった。食糧不足だから、県外からも結構集まってきました。それはもう押し合いへし合いで、ほんとに肩がぶつかったとだけで喧嘩になるし、どれだけ酒を買うんだとか。本当に物の取りっこ。それぐらい物がなかったんです。品物さえあれば誰でも売れた。というのが当時の商売ですね。」
「今ですと綺麗な店舗が色々並んでいるわけなんですが、その当時の店舗というのはどんな感じでしたか?」
「当時の店舗はバラックで、りんご箱を敷いてその上へと戸板を引いて、商品をただ並べるだけ。そんな商売でした。」
金子さんは満州のソ連近くに住んでいたそうで、引揚はそれこそ命がけだったそうです。
(イメージ写真)
 
闇市(イメージ)
闇市(イメージ)
 (清水歴史探訪より)
 当時の町の風景は、今とは全く違っていたようです。
 
「ここはね、真砂町という通りだもんで、浅瀬でもってずっと海の方へ繋がっていたんです。昔のことは私はわかりませんが、戦後直ぐに来たときには、ここから今のドリームプラザの所までが見えました。練炭を作る工場があったり、瓦を焼く所があったり、石炭の山積みになっているところがあったりと、ここからも見えたわけですね。」
「海までほとんど見える状態だったということですか?」
「当時は何にもなかったから意外と海が近かったんですね。」
「そうすると、まさに浜の真砂のという状況だったんですね。」
「まさしく町名の通りですね。」
「それが今まるで変ってしまった感じがしますね。」
「そうですね、昔の真砂のあれはどこへやらで。面影がない。」
 
当時は、日常の暮らしも、懐の豊かさも、現在とは違いました。売れ筋の商品もだいぶ違っていたようです。
 
「食べ物が、という今お話しが出てきましたけれども、どんな物が売られていたんですか?」
「そうですね、通りの所にはうどんだとか、雑炊とか、すぐ食べられる飲食。そして当時ミナト市場(みなとマーケット)へ入ってくれば、それこそ古着から、メリケン粉の袋。 
今の小麦粉当時はメリケン粉も、木綿の袋に入っていたんですよ。
その袋がパンとか麺を作るといらなくなるから、それを洗って糊(のり)して干して、それを衣類に仕立て変えて作ったというのが当時です。」
「では小麦粉を入れてきた袋、輸送用の袋が、新たに商品になってしまうわけですね。」
「ええ、それをまた売るんです。だからアメリカから輸入してくると、その袋を再生して、シャツや袋とかに再生していたんです。だからその袋だけを売っているお店もあったんです。」
「そうなんですか、今では考えられないことですね。」
「そうなんですよ、今はいわゆる資源回収みたいなことをやっていますが、当時はそれは一般商品として売られていたという。」
「そうしますと、舶来衣料ということで、結構良かったのではないですか。」
 
 
今でいえば、リユース、リサイクルといった所でしょうか。
アメリカから輸入された小麦粉の呼び名として、アメリカン粉がなまってメリケン粉となったもの。
麻袋はよく聞きますが、小麦粉のような細かい粉には木綿袋が使われたのですね。
大八車
リアカー
(清水歴史探訪より)
この頃の清水駅前銀座商店街には、地元ばかりではなく、かなり遠くからもお客さんがやってきていました。
 
「湯河原の旅館の方、伊豆の旅館の方、皆ミナト市場(みなとマーケット)に仕込みに来たんです。あと豊橋から来たり、甲府から、身延南部。皆そこから朝早く3時ごろ出発。
大八車でもって信濃のお米とか大豆を持って来るんですよ。そしてうちでもって買ってもらうんです。そしてその売ったお金で、また清水の物を買ってまた帰る。
だから朝3時にきて帰る時は(午後の)5時過ぎ。おそらく帰る時は真っ暗になって帰ったと思うんです。小河内の坂を」
「ずいぶん遠くから買いに来ていたわけですね。」
「それはもう、だからそれだけ物が無かったし、店が無かった。だから食料を求めてくる人も多かった。」
「今の大八車というのはすっかり見かけなくなりましたけれども。」
「今の方はなんだろうと思うじゃないですかね。」
「リアカーの大きいものと言いますか。リアカーも最近わからない人が多いですよね。」
「リアカーは鉄のパイプでできているんですが、大八車は木でできているんです。ですから、荷車ですね。」
「当時も鉄道を走っていたと思うんですけれども、やっぱり鉄道よりも大八車を引っ張ってくる方が多かったんですか?」
「というのは身延線というのはあんまり本数が少なかったんです。しかも荷物がたくさん積めないじゃないですか。だから当時の人は大八車を五人くらいで持って、朝押してくるんですよ。大変だと思います。朝3時ぐらいに出てくると言っていました。子供の時に聞いて覚えていたのは。」
「金子さんもそういう風なことをやった覚えというのはありますか?」
「私はですね、子供の頃にただ自分でもって親が『闇物資が入ったぞ』と言うと、すぐ行って、そしてそこでちょっと『店番してろ』と言われて、3歳から5歳の時に店番していましたよ。
お客さんが来て、『ボク、(私は)これが欲しいから』って言って、お客さんが計算してくれて、それで『いくらになるからおつり寄こしな』って言って。そういうやり取り。
だから子供でも店番ができた世の中でした。世の中は荒(すさ)んでても、人の心は曲がってなかった。子供だからといって誤魔化すことはしなかった。今の世の中というのは、年寄りとか子供とかもすぐ騙したりごまかしたりするけれども、当時はそういった人はいませんでしね。あんだけ生活が困っていても、子供とか年寄りを騙そうなんていうケチな事はなかったですね。あの当時はマナーがありましたね。」
「人情があったという感じですね。」
「そうですね。」
5
0
1
4
9
5
税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
TOPへ戻る