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 10.解説・JAPANESE INN(水口屋)その4
 
 浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)の紋
 
     1701-1703                       
CHAPTER TEN
In which the master of  Minaguchi-ya obeservers
the course of a vendetta that stirs all Japan         
                                                                
第10章 日本を震撼させた仇討ち(7代目)
 大石内蔵助(くらのすけ)(国芳筆・メトロポリタン美術館蔵)
 元禄14年(1701)3月15日、突然、興津宿に急使が通ります。急使は普通、一日前に触れがありますが今回は何の前触れもありませんでした。浅野内匠頭の刃傷事件です。急使は2名、駕籠かきは12名、宿駅ごとに乗り継いで、4日半不眠不休で旅を続けるのです。
 では、事件のあらすじを簡単に説明いたします。
 元禄14年3月14日江戸城中「松の廊下」において刃傷沙汰がありました。折しも京都からの勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂(兵庫県)五万三千石の殿様、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、なんと儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけたのです。この結果、浅野の殿様は切腹、赤穂の城は没収、家臣は失職離散。一方、吉良上野介はあくまでもお咎め無しとなります。
 家老の大石内蔵助はあくまでも恩赦特赦によるお家再興を働きかけ続けたのですが、虚しく日が過ぎていきます。家臣達からの仇討ちの督促や想像以上の世論の期待に耐えきれず、ついに内蔵助は決断をすることになります。 
 大石内蔵助が江戸へ旅立ちますが、途中、大石内蔵助が偶然、水口屋の半四郎と遭遇します。半四郎は出会いのことは他言しませんでした。
 吉良邸への夜討ち(国芳筆)
 元禄15年12月14日、大石内蔵助率いる総勢四十七名は殿様の命日に討ち入ります。めざすは両国松坂町「吉良屋敷」へ 。
 討入り翌朝4時、まだ暗い。激闘2時間の末、見事、御首を挙げた四十七士は、主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋し、墓前に首級を供えたのです。 この快挙に江戸市民はやんやの喝さいをしました。
 赤尾浪士は切腹となります。放免されると信じていた半四郎は泣いて怒りました。半四郎は四十七士の埋葬された泉岳寺に参りたいと思っていたが、巡礼に対する嫌悪感のためついに果たせなかった。
広重の落款の一つ
 
     1842                           
CHAPTER ELEVEN
In which one of Japan's great artists visits
the Minaguchi-ya                                        
                                                         
第11章 広重の水口屋訪問(15代目・16代目)
 由比のさった峠ふもとの茶店。二人の旅人が二階さじきから景色を眺めている。(広重筆)
 東海道を上る大名行列に土下座する村人(広重筆)
 「由比にて一服す。名産のあわびとさざえ共に美味なり。」と広重が記載したのは、望岳亭藤屋(清水歴史散策第5話)の茶店であります。
 さった峠を通り、興津川を渡った広重は水口屋に向ったのです。広重は、金もなく脇本陣である水口屋の客筋に相応しくなかったのですが、かって幕府の役人だったことから、いつも水口屋に泊まり望月家と親しくしていたのです。役人の広重が泊まった時、水口屋14代目の素人絵師の茂平は広重と意気投合したのです。
 水口屋13代目には子供が無く、茂平は本陣の手塚家から養子にきたのです。この14代目の茂平にも子供がなく、15代目の源左衛門も手塚家からの養子でした。源左衛門には女の子が生まれたのですがひよわだったため、源左衛門は度々巡礼に出てしまい、亡くなってしまいます。このため、16代目の頼助も手塚家からの養子でした。
 頼助は広重に揮毫を依頼して、いつも宿代を少し上回る画料を差し出しておりました。広重は画人としてではなく職人として扱われていたためいつも貧乏だったのです。
 
 興津の堤防、漁船と富士(広重の画集より)
 由比の祭で踊る百姓(広重筆)
 
 三保から眺めた興津(広重筆)
山岡鉄舟の紋
 
     1820-1893                         
CHAPTER TWELVE
Which introduces the Tokaido's  Number One Boss
                                                             
第12章 東海道一の親分(17代目)
 水口屋15代目の源左衛門の弟であった頼助は、25歳までは居候で一生終わると思っていたが、兄が亡くなったことにより兄嫁をめとり16代目の水口屋を継ぐことができた。丈夫な息子も生まれたが、手塚の本陣を継いだ頼助の兄に子がなかったため、手塚家の養子になった。このため、蒲原の旧家から半十郎(水口屋17代目)という養子を迎えた。同じ頃、半十郎の兄弟もさった峠の望岳亭藤屋の養子になった。
   米を俵に詰める男(北斎筆)
 さて、水口屋20代目の嫁の伊佐子の祖母が駕籠に乗ってさった峠を通過する時、駕籠かきがゴネはじめた。祖母が危うく酒代をはずもうとしたところ、後ろの駕籠から連れ添いが顔を出した。その途端、駕籠かき達は土下座して謝った。
 祖母が、単なる質屋通いのやくざ者と思っていた人物こそが清水の次郎長だったのであります。ここで、スタットラーは『清水次郎長』についてかなり詳しい説明をしておりますが、『清水歴史散策』では度々『清水次郎長』を取り上げておりますので省略して、水口屋と関係あるところだけを紹介いたします。
 
 左の挿絵ですが、次郎長は米屋に養子に行きました。それで、米に関する挿絵です。日本では当たり前の光景がスタットラーには珍しかったと思われます。
 
 清水次郎長は清水出奔(しゅぽん)の時に最初の女房を離縁しておりますから2番目の女房になります『最初のお蝶』は次郎長の義兄弟・江尻の大熊の妹でありますが、このお蝶は水口屋で奉公していたのであります。
 次に半十郎の兄は、さった峠の茶店・望岳亭藤屋の主人をしておりました。清水次郎長は、望岳亭藤屋に預けられたことがあったのです。
 力士のまわしを締めるところ(北斎筆)
 大政奉還に関連して、西郷隆盛と勝海舟が会談して江戸無血開城をしたことは有名ですが、その前に駿府で山岡鉄舟と勝海舟の会談があったのです。山岡鉄舟は勝海舟と会うため官軍に捕まらないように駿府に向っておりました。途中逃げ隠れたのが、望岳亭藤屋なのです。茶店の主人は山岡鉄舟を清水次郎長の元に送り、無事、駿府会談ができたと言われております。
 
 右の挿絵ですが、力士上がりのやくざ者も多く、次郎長ばかりでなくやくざ者と力士とは縁が深かったようです。スタットラーにとっては、力士とかふんどしは珍しかったと思います。
 
 明治維新が始まりますと徳川慶喜が駿府に移ります。明治天皇も東京に移ります。時代は大きく変化いたします。
 本陣だった市川家と手塚家をはじめ多くの宿屋が店を閉めますが、水口屋だけは過度期を乗り越えます。半十郎は、客層を大名や一部の裕福な人々から庶民に切り替えたのです。特に、伊勢参りをはじめとする団体旅行者に目を付けたのです。
 半十郎はまともな旅館の同業者組合『一新講社』を思いつきました。全国各地の神社仏閣参りの講は一新講社と契約を求めてきました。
 さらに、意外なことに大名も相変わらず泊まってくれたのです。
 泊まってくれた顧客のなかに、島津公と西郷がおりました。半十郎は島津公から薩摩の紋所・丸に十の字の図案の使用を許可されます。西郷が薩摩で反乱を起こし自刃(じじん)した頃、水口屋16代目の頼助が息を引き取りました。
 明治12年(1879)にアメリカの前大統領グランド将軍が清水に来た年の12月、興津で火事が発生し70戸の建物が焼失します。この時に水口屋も焼失しますが、半十郎は思い切ってもっと立派な建物を建設いたします。
 水口屋は再建されましたが、昔の記録は失われてしまいました。半十郎は人々の記憶を頼りに家系図を作りますが6代前までしか遡れませんでした。
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税理士法人いそべ会計
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代表 磯部和明
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