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いそべ会計の地図
税理士法人いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 磯部和明
公認会計士・税理士
代表 森田行泰
税理士
1.各種税務相談・税務申告
2.会社設立・記帳業務
3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
第四十三話 世界的にも有名だった『水口屋』の話

水口屋ギャラリー

(フェルケール博物館別館)

 

住      所〒424-0205

  静岡県静岡市清水区興津本町36

 

電話番号054-369-6101

 

営業時間10:00~16:00

 

休 館  日:月曜日

目 次
 興津に有名な日本旅館がありました。オリバー・スタットラーの『JAPANESE INN』で世界的にも有名になった『水口屋』であります。残念ではありますが、今は旅館ではありません。一時期は、鈴与(株)の研修センターとなっておりましたが、今では『フェリケール博物館別館・水口屋ギャラリー』として無料公開されているのです。
 ギャラリーの中に入ると、水口屋当時の品が並んでおります。昔まだ旅館経営をしている時に、私が食事をしに『水口屋』を訪れた時には見られなかったものばかりです。鈴与(株)の研修センターから無料ギャラリーにしてくれたことに、感謝!感謝!であります。
 『水口屋』の近くに西園寺さんの別邸『坐漁荘』があります。この土地は水口屋が無償提供したそうですが、お蔭で水口屋は大繁盛したのです。西園寺さんのお蔭で『水口屋』は政治の裏舞台として大活躍したのです。
 それだけではありません。水口屋には、政治家だけでなく軍人から作家、歌舞伎役者、映画俳優などいろんな人が宿泊したのです。
 現在、オリバー・スタットラーは日本研究で有名です。1956年に『日本の現代版画』を最初に出版した後、1961年に『Japanese Inn』を出版いたしました。この本はオリバー・スタットラーが1947年から58年までの滞日中にまとめたとされております。
 次いで1961年から63年まで伊豆下田に住み、1969年には『Shimoda Story』を出版しております。さらに、1968年には四国霊場巡り『Japnese Pilgriage』を出版しております。
 水口屋は大正天皇が皇太子で、興津の清見寺に宿泊した時に食事を提供したことがあります。また有栖川宮尉子妃殿下がご宿泊したこともあります。しかし、最大のイベントは昭和天皇のご宿泊であります。昭和32年の静岡国体が開かれた時に水口屋に2泊3日なさったのです。
 水口屋が旅館だった時の資料も残っております。『海水旅館一碧楼(いっぺきろう)水口屋』の古い看板も大事にとってありました。この『一碧楼』という名前は、後藤象二郎がつけた名前であります。
 武田信玄の駿府侵攻から始まった『水口屋』の歴史は、昭和60年に『歴史に宿』の終止符を打ったのであります。
 スタットラーが日本の宿として紹介した『水口屋』は、第1章の『宿の道』から始まります。ここでは、スタットラーは『水口屋』までの道のりを紹介しております。地元に住む者にとっては普段通る単純な道のりなのですが、鋭い観察眼により目新しく感じられます。
 第2章の『宿のはじまり(初代・二代目)』では、初代の水口屋の主人が武田信玄の部下であったことが記されており、第3章の『不承不承の宿経営』では、徳川家康の支配する江戸時代に入り参勤交代の制度ができ、興津が宿場となったことが記されております。
 日本文と英文と本の開き方が逆なためか、表紙の浮世絵の左右が逆になっております。
 第4章の『水口屋との出会い』では、スタットラーが如何にして『水口屋』と出会ったか?と同時に『水口屋』の最初の頃の歴史に触れております。次に第5章では由井正雪の時代と『水口屋』との関わりあいを、そして第6章では水口屋の上得意であった松坂屋の伊藤家との出会いを記載しております。
 
 左の表紙の本は、三浦朱門が訳した『ニッポンの歴史の宿』(1961年)であります。こちらの三浦朱門の翻訳の方が読みやすいのですが、原書を正確に訳しているのは斎藤襄治氏の方です。なお、三浦朱門さんは現在90歳で認知症に陥り、妻の曽野綾子(現在85歳)さんが老老介護をしているそうです。
 第7章の『宿場の苦と楽(6代目)』には当時の一般的な宿屋経営の記載があります。それに芭蕉が来たことが記載されております。第8章の『清見寺の膏薬店』では興津の名品・清見寺の万能膏についての記載ですが、興津の稚児遊びについてもふれております。第9章では、当時流行した『伊勢参り』と水口屋の息子の嫁の不義密通についての記載です。
 
 左の本の表紙は、斎藤襄治(じょうじ)の訳した『東海道の宿 水口屋物語』(1978年)であります。斎藤襄治は、東京生まれの浜松育ちで、日本文学の翻訳で活躍したひとです。私の解説は、この『東海道の宿 水口屋物語』をベースに行っております。
 第10章の『日本を震撼させた仇討ち(7代目)』では、忠臣蔵の赤穂浪士の物語を詳細に説明すると同時に水口屋との関わりあいを、第11章の『広重の水口屋訪問(15代目・16代目)』では広重と興津そして水口屋とのふれあいを、第12章の『東海道の親分(17代目)』では清水次郎長の生涯についてかなり詳細な記載をしております。
 また、第12章では水口屋と薩摩藩とのつきあいがきさいされ、薩摩藩の紋賞「丸に十の字」の使用を水口屋が許可され、以降水口屋の紋賞も「丸に十の字」になったことが記載されております。
 江戸時代の参勤交代が無くなり、明治になると鉄道が開通します。時代の変化とともに、本陣と呼ばれた最高級の旅館は姿を消していきます。水口屋は同業者組合『一新講社』などを設立して繁栄をするのですが、鉄道の開通とともに『一新講社』の仲間も姿を消していきます。
 第13章では、そのような時代に『水口屋』が奇跡的に生き残り繁盛した政治家とのつきあいの歴史を取り上げております。そして、第14章の『水口屋の戦中戦後(20代目)』、第15章の『両陛下臨幸(20代目)』と続きます。
 残念ながらこれ以降は時代の波には逆らえず廃業の道を進むわけです。
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