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 11.解説・JAPANESE INN(水口屋)その5
  西園寺公望の紋
     1889-1940                       
CHAPTER THIRTEEN
In which the inn successfully the transition
into modern times                                       
                                                                
第13章 水口屋近代化に成功(18代目)
後藤象二郎
井上馨
伊藤博文
    清見寺の屋根越しに見た駿河湾(平塚運一作)
 明治22年(1889)東海道線が興津まで開通。半十郎は汽車を見ながら水口屋の終わりを危惧した。一新講社の同業者は次々に閉店、興津本陣の市川家も手塚家も閉店、清見寺の膏薬店や龍王煙草、坪焼屋、うどん屋、饅頭屋も姿を消していった。
 ところが、水口屋は政治家のお蔭で最盛期を迎えたのである。17代目の初代半十郎も男子に恵まれなかったために婿をもらったのだが、この婿・2代目半十郎が政治家と仲良くなったのである。
 最初の政府高官は後藤象二郎で、彼は『水口屋』に『一碧楼(いっぺきろう)』と別名を与えた。一碧とは、海も空も伊豆や三保も青々としていることである。
 次の政治家は、井上馨である。しかし、最も興津に縁の深かった政治家は西園寺公望である。
 この西園寺さんについては、『清水歴史散策の第29話』にて紹介しているので、水口屋に関連あることだけ紹介しよう。
 西園寺さんの別邸『坐漁荘』の土地は元々は水口屋のものであった。二代目半十郎が差し上げたといわれる土地の上に建てられた『坐漁荘』の西園寺さんに会いに来るために、水口屋は全盛期を迎えたのである。水口屋の常客には、西園寺さんの政治面を支えた原田男爵と西園寺さんの秘書役の中川小十郎がいた。
 さて、昭和8年(1933)二代目半十郎が享年70歳で亡くなると、水口屋には現役の当主がいなくなってしまったのである。三代目半十郎は病床で、水口屋20代目となる四代目半十郎・望月青年は宿屋業に熱が入らず、原田男爵の秘書になったのである。水口屋は、二代目の未亡人、三代目の妻、四代目・望月青年の妻伊佐子の女性陣で経営されたのであった。
 昭和15年(1940)、西園寺公、死去。 
西園寺公望
原田男爵
中川小十郎
水口屋の紋
     1940-1957                       
CHAPTER  FOURTEEN
In which the inn survives the war and Occu-
pation                                                            
                                                                
第14章 水口屋の戦中戦後(20代目)
 西園寺さんの没後、側近は解散、望月青年も水口屋に戻り家業を継いだ。しかし、原田男爵の秘書だったため望月青年は憲兵隊に度々尋問されたのだった。
    盆踊り(前川作)
 終戦後、アメリカの将校が水口屋に泊まり、進駐軍の要員が泊まっても良いという許可が下りる。終戦後は食料の確保が困難で、進駐軍は将兵に食事を出すことを禁じたため、持参した食べ物を温めること以外はできなかった。
 にもかかわらず、アメリカ兵は大勢で押しかけて来た。このため、多少英語の話せる伊佐子の父親が清水から呼ばれたのである。中には、女の世話を頼まれて女郎屋を紹介したり、日本人のガールフレンドをアメリカの憲兵(MP)に見つからないようにしたりと問題があった。
 スタットラー達は、プライバシーが守られていた水口屋がたいそう気に入り、毎日、日本を発見している気持だったと証言しております。
 さて、原田男爵の秘書をしていた望月青年は、水口屋が農地解放で土地を失い財産を切り売りし貧乏になったためか、家業に専念し宿屋再建を決意し、水口屋20代目・四代目半十郎を襲名したのであった。
 水口屋は改装され、進駐軍は去り、水口屋のお客は日本人、特に実業家が大切なお客となったのである。
天皇の紋
     1857                          
CHAPTER  FIFTEEN
In which the Emperor and Empress of Japan
honor the inn asits guests                             
                                                                
第15章 両陛下臨幸(20代目)
 昭和32年静岡国体に来た天皇陛下
 天皇皇后両陛下は、昭和32年(1957)静岡国体育にご出席のため、清水市を訪問されることになった。この時のご宿泊先が水口屋に決まったのだった。
 かっては、天皇陛下の宿泊所は都道府県の庁舎や学校、公会堂などだった。そこに寝台から家具を入れてご宿泊所としたのであった。しかし、これでは侍従たちが満足に宿泊できないので、宿屋がお宿泊所となったのである。
 天皇陛下は水口屋に2日間泊まるだけなのに、1カ月前から宿泊の準備が始まった。湯殿は、埋め込み式のタイル張りの湯舟を滑らかな杉の湯舟に替えられた。この湯舟、私も昭和の時代に見させてもらいました。今では写真がありますが、その写真を上手く映せませんでした。しかも、一説では天皇陛下はこのお風呂を使わなかったそうです。
 昭和32年静岡国体をご覧になる天皇陛下
 わずか2晩の宿泊のため、あちらこちらが修理され、食器から寝具、従業員の制服、着物、半纏までが新調された。献立は厳選され、あらゆるものが検査され消毒された。
 子供たちの夕食の支度もそっちのけで、両陛下の歓迎に頭がいっぱいだった。赤い絨毯が届き、家具が運び込まれ、ラジオ、テレビ、バケツまでが新調された。
 到着の前日には、モーニング、着物が整えられ、侍従たちは必要な作法の復讐を指導し、直接、両陛下に声をかけないよう申し渡していた。
 天皇陛下、ご到着の日は学校は休みとなり学童は小旗を持って歩道に並んだ。警察は、携帯無線で連絡を取り合い、私服警官が群衆に交じっていた。
 天皇陛下が到着された時には、皆が最敬礼をした。緊張のためかぎこちない万歳が唱えられた。
 陛下が滞在中は、皇居から来たお付きの人だけが部屋の出入りをした。食事は白布覆われ運ぶ女性は外科医のマスクをした。新聞は滅菌消毒され、アイロンがかけられた。
 陛下がお立ちになる時、お言葉を賜わった。水口屋のお婆さんはうれし涙に暮れた。陛下が立ち去られた後、何百人のものが見物に訪れた。
 両陛下のご臨幸は、水口屋にとって最高のそして最後の栄光であった。
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税理士法人いそべ会計
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TEL.054-364-0891
代表 磯部和明
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■東海税理士会所属
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