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4.波止場浪漫その4(大正)

16.大正その6 宵待草(大正5年:41歳)

 けんは植木に「初志郎に操を奪われたこと、植木には話が出来ず一人で苦しんでいたこと」を話していた。植木は、「一方的に婚約を取り消されたと思い、母の懇請により出直そうと思い結婚したこと」などを話した。

 植木は、けんに頼まれて、おちょうの子箪笥を二階から降ろそうとした。そのため、抽出(ひきだし)を出そうとしたら、桐の箱が見つかった。

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 箱の中を開けると、おちょうや植木が懇意にしていた弁護士が書いた手紙が出て来た。手紙には、おようの娘は初志郎と知り合う以前の子供であることが戸籍からわかると書いてあった。したがって、娘は初志郎だけでなく植木先生の子供でもないことがわかった。娘とはいすゞのことである。そして、最後におちょうが植木先生がけんと結ばれないよう結婚をしかけたことが書いてあった。

 けんは梅陰寺に墓参に出かけた。そこで、みかんどろぼうをしている寛太という少年にあった。悪ガキは次郎長の子供の頃をほうふつさせ、強い印象を残した。寛太はおようの子供であった。

 千畳楼でけんとイソが話している時、マチ子といういすゞの妹が母親の使いで金をとりに来た。けんはマチ子といっしょに、母親おようの家に行くのことになった。けんはマチ子と話しながら、はるが『宵待草』という詩をおちょうのために書き写した話を思い出していた。

17.大正その7 カチューシャ(大正5年:41歳)

 けんはいすゞと話をしていた。大杉栄が愛人に首を刺されたが一命をとりとめた話をした後、けんはいすゞの実父は植木先生ではないことを戸籍の話をして説明した。

その後、イソからいすゞの弟の寛太と勇平の子供の長助が、駅員に石を投げて捕まった話と勇平の女房がオトコ駆け落ちした話を聞いた。

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けんは、千畳楼をでると『松井須磨子きたる』のチンドン屋に出くわした。

けんが、大杉栄の愛人、一葉、須磨子と自分とを重ね合わせて考えながら、おようの家の近くに行ったらアナーキストを自任する若者と会った。若者は、おようと同居しているようであった。

けんが松井須磨子のチケットを持って植木の診察室を訪れたら、そこには植木の妻ののぶがいた。植木に渡す予定のチケットをのぶに渡し、玄関を出てため息をついた。

松井須磨子の『カチューシャ』を観た数日後、のぶが末廣に挨拶にやって来た。のぶはおちょうやけんを褒めて帰って行った翌日の夕刻、植木がやって来て『のぶは娘と磐田の実家に住み、植木は清水をはなれるつもりはない』と言った。

 

18.大正その8 みだれ髪(大正6年:42歳) 

 植木の妻子は福岡から磐田に移転した。植木は清水に今日帰る予定だった風雨がひどくどうなるかわからなかった。日暮れとともに、暴風雨ははげしさを増した時に、およう、書生と子供たちが入江町から逃げて来た。この暴雨風の中、おようと書生は「東京に行きたい。ついては子供を預かってくれ。」と言うのであった。けんは、子供たちを見棄てることはできないと思い承諾した。けんはおようになけなしの蓄えを渡し、二人は風雨の中飛び出して行った。

 暴風雨の去った後、三保村から被災者がやって来た。中に、長助と祖母がいた。しばらくして、植木先生もやってきた。その後、逃げたおようと書生が二人とも死亡したことがわかった。二人は棍棒で殴り殺され、海に投げ込まれたのだった。

 植木とけんは、書生が詠んでいた与謝野晶子の『みだれ髪』を詠んだ。

19.大正その9 女一揆(大正7年:43歳)

 けんは、おようと勇平の子供たちの面倒を末廣でみる決意であった。梅陰寺でも、萬休和尚との話で、子供たちのことが話題になり、寛太や長助が憲兵に食ってかかる話から、米の値段が高騰し女房連が役所におしかける「女一揆」の話に変わった。

 各地で米騒動が起き、清水でも不穏な動き続いた。神社で集会があるという話とともに、寛太と長助の姿が見えない。けんは集会のある小芝神社へ向かった。神社は黒山の人だかりで、煽動者は米屋の兼高を襲撃するようあじった。兼高の店主は暴徒に怯え、米の廉売を約束した結果、次の襲撃先はスイチ(望月兄弟商会)となった。

 スイチには、次郎長やおちょう、けんとも世話になっている。スイチは、米騒動を警戒し、店の前では施米の立札もかかげ、暴徒にはただちに廉売も約束したが、おさまらなかった。暴徒は手当たり次第に打ちこわしをするだけではなく、石油缶を投げつけ火をつけた。それだけではなく、望月家にも火をつけた。けんの世話になっているおかねさんは、九死に一生を得た。

 けんは、この時の騒ぎで倒れてしまい、寝こんでしまった。次々と見舞客がきたが、その中に植木の妻のぶがいた。のぶは「来春からは、植木先生の世話ができます。おけんさんにお迷惑をおかけすることもなくなります。」と言った後、『植木とは離縁するつもりはありません』と言った。

清水にもあった米騒動と焼き討ち事件の顛末より『スイチの米騒動 

火事場の馬鹿力 


 ところで当時真砂町にはスイチの次男正治郎の家があった。家族たちは中二階に隠れていたがここにも火の回りが早く、皆身体ひとつで避難した。ところが正治郎の妻「かね」だけが逃げ遅れて取り残されてしまった。その時、心配して駆けつけてきた辻町の長井藤太郎(私どもは通称で藤ヤンと呼んでいた)が、窓際で必死に助けを求めている「かね」の姿を見つけてくれた。この緊急事態に周りにいた家族はどう対処したらいいのか見当もつかずに思案していた。藤ヤンは咄嗟の判断で庭にあった植木を、自分が火の粉をかぶる危険を冒しながらも、何度も、何度も押し、さらに揺すり続け、ついに窓際の「かね」の手の届くところまで、押し込んでいくことに成功した。おかげで、「かね」はその木をつたわって降りることができ、九死に一生をえることができたという。どうみても“間一髪”の出来事でまさに藤ヤンの咄嗟の即断力による「火事場の馬鹿力」が一人の人間の命を救ったということである。この美談は、わたし自身が子供のころに直接藤ヤン本人の口から聞いたのでよく覚えている。「スイチには、大変親切に面倒をみてもらった」と、藤ヤンから涙ぐみながら当時の様子を聞かせてもらったことは、今でも私の心底に強く残っている。

20・大正その10 浜辺の歌(大正78年:4344歳)

 けんは「初志郎が航海中に亡くなってタコマに行けなかった」話を植木にした。

けんは肺病を患っており、植木に転地療養を勧められた。そこで、いすゞといっしょに大磯へ行くことを決心した。けんは昔を思い出し、海を見ながら『浜辺の歌』を口ずさんだ。

ところが、いすゞの病状が悪化してけんの看護もむなしく千畳楼で亡くなってしまった。

胸を患ったけんはこれからどうしようと考え、梅陰寺へ向かった。梅陰寺で月心(げっしん)から「寛太が坊主になりたい。」と聞かされた。末廣に帰ってからはるから「鈴与のおたつさんが住み込みで働かせてもよい」と聞かされた。長介は芝栄に面倒見てもらうことになった。さらに、老婆と幼子は山田政吉が世話をしてくれることになった。山田政吉は将来社会事業をすつもりだと言ってくれた。

けんは、思い切って末廣をスイチに売却して、結核療養のための専門病院の石本医院に長期療養する決意をした。けんは植木に「入院する前に、ふたりきりで、どこかにいきましょう」と誘った。

^^^^^WEBより

21.(ばつ)(大正8年:44歳)

 けんと植木は、三保の羽衣亭の離れの座敷で、昔話に興じていた。夜明け前に三保の浜辺で散歩をしている時、朝日があたった。浜辺の歌を唱和しながらゆらゆらと坂をのぼっていった。

解説
 
 大正の後半は、大正6年から大正8年までのおけんちゃんが41歳から44歳の時までの話です。おけんちゃんが亡くなったのが大正10年ですから、亡くなる少し前までの話であります。
 おけんちゃんと植木先生の話が中心ですが、実際の大杉栄の事件や清水にもあった米騒動の話も出てきます。最後は、『末廣』を当時の大富豪スイチに売却する話です。
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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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